ブリテンの覇権に対する手ごわい挑戦は、フランス革命の直後にのし上がったナポレオンの大陸制覇によるものだった。ナポレオンは、ヨーロッパの大半を征圧して、ブリテンの優位を切り崩すために、ヨーロッパ各地とブリテンとの貿易経路を遮断しようとした。港湾を封鎖して、禁輸政策を強行した。
「大陸体制( systemes continental )と呼ばれるレジームだ。
これは、いってみれば、主として陸上からの通商破壊(commerce raid)だった。
けれども、ヨーロッパの経済的再生産は、もはや世界貿易なしには成り立たなくなっていて、その要がブリテンの仲介貿易だった。
つまり、ヨーロッパ全域は、ブリテン・ロンドンを中心=頂点として編成された世界貿易・金融(世界分業)の仕組みに組み込まれていたのだ。
ところがフランスは占領制圧したヨーロッパ諸地域を一方的に収奪するけれども、ブリテンが提供していたサーヴィス(製品や金融サーヴィス)を供給できなかった。
そこで、各地で密貿易が横行した。やはり、ブリテンの仲介貿易なしには、ヨーロッパのいかなる国家も長期持続的な経済的再生産は成り立たなかったのだ。
皮肉なことにナポレオンの大陸体制=貿易統制は、かえってヨーロッパ大陸の外部の海洋で、ブリテンの好き勝手な貿易・金融活動と艦隊の展開を野放しにすることになってしまった。
かくして、ナポレオン戦争によって、世界貿易・金融におけるブリテンの最優位は堅固になってしまった。
フランス軍は、フランスというナショナリティを前面に掲げながらヨーロッパ各地を占領・征服した。まともな補給体系もないので、食料などの物資は遠征した場所で収奪=徴発した。
しかも、兵員の多くは一般市民から徴募され組織されていた。彼らは革命思想や国民意識でイデオロギー的に武装していた。
そこで、征服占領された諸地方では、住民のあいだに、フランスの支配への反発や対抗意識から「国民国家」建設への要求が醸成された。その傾向は、とりわけ200近くの領邦に分断されていたドイツ・中央ヨーロッパで強かった。
こうして、ナポレオン戦争を契機として、ヨーロッパ全域に国民形成(nation-building)の運動が活発化する。
ドイツ地方では関税同盟の運動が起き、さらに国民的統合=国家形成をめぐって、新たに台頭してきたプロイセン王権とオーストリア王権とが対抗することになった。
まもなく、軍事力の最大の担い手が国民国家となる時代が始まっていく。多数の国民国家が本格的に世界市場をめぐる分割闘争、勢力争いを担う時代が到来する。
ブリテンは、それ以降、20世紀のはじめまで世界貿易や世界金融、そして世界の海洋権力での最優位を保持し続ける。とはいえ、工業生産力や技術では、1870年ごろまでに、アメリカ合州国やドイツに追い抜かれてしまっていた。
しかしブリテンは、それから約半世紀近く、世界貿易と金融での最優位を保持した。
ブリテンの保有する特許技術の量はドイツやアメリカを圧倒的にリードしていたが、それを製造業で活用して産業育成する方向では運用しなかった。
世界貿易や金融を組織化する事業から獲得する利潤が大きすぎたせいか、シティの金融・貿易資本と地主階級・貴族との強固な同盟(製造業を卑しむ気風)は、強力な製造業を国内に育成する努力は極力惜しんだようだ。
19世紀後半以降、アメリカやドイツ、イタリア、日本をはじめ世界諸地域の産業育成(工場建設)、鉄道・港湾建設、都市建設などのための融資(政府借款)やプラント(機関車や軌条、船舶含む)輸出をシティの資本が組織化し投資することで、恐るべき利子・金融収益を獲得し続けていたのだ。
ジョン・メイナード・ケインズは、ブリテンの強すぎる金融・貿易資本の権力によって製造業が弱体化し続ける状況を嘆き、景気循環の下降局面を長引かせ深刻化するとして批判し続けた。