イングランドは独自の王権が成長したものの、政治的経済的に大陸の従属圏=植民地のような地位に置かれていた。大陸の都市やマニュファクチャーのためのや食料原料=羊毛の生産を割り当てられていた。
貿易を組織し、金融的に支配しているのは、北ドイツ(ハンザ)やイタリアの大商人たちだった。彼らは、イングランド王に巨額の献金や賦課金を差し出して特権を独占していた。
ところが、16世紀はじめから、イングランドのテューダー王権は、ロンドンを中心とする域内土着の商人団体と強固に結びついて、大陸の諸勢力から独立した軍事単位となり、ヨーロッパの通商戦争に仲間入りしてきた。
ことに、大陸各地と大西洋、アメリカ大陸で急速に勢力を拡張するエスパーニャ王権には、強い警戒と対抗意識をもっていた。というのも、ハプスブルク王朝は、イベリアを支配するだけでなく、ネーデルラントやブルゴーニュ、イタリア・地中海に広大な領地をもつ帝国のように振る舞っていたからだ。
この世紀の後半に、ネーデルラントの諸都市と在地貴族によるエスパーニャ王権への反乱、独立闘争が始まると、イングランド王権はエスパーニャに対抗して、分離独立勢力に強く肩入れした。
だが、エスパーニャに隣接するフランスでは、各地の諸侯領主たちが分裂敵対し、そこにカトリックとプロテスタントとの宗派闘争が絡みつき、ひどい戦乱状態(ユグノー戦争)に陥っていた。エスパーニャは、あちこちから軍隊やイエズス会組織を送り込んで、フランスの分裂と戦乱を拡大していた。
エスパーニャ王権はイングランドをも支配しようとしていた。
和睦=屈服しないイングランド、つまりはロンドンの商業資本に対して、フェリーペ2世は「無敵の武装艦隊」を差し向けた。軍艦の性能は段違いにアルマーダが格上だった。とはいえ、エスパーニャ連合王国の連合艦隊は、カスティーリャ王権直属のアルマーダだけでなく、バルセローナの艦隊やらフランデルン諸都市の艦隊、イタリア諸都市の艦隊の寄せ集め。艦船の形や性能もあれこれまちまち、指揮系統も別個で、統一された軍事組織ではまったくなかった。
16世紀、イングランド王権は未成熟で財政基盤も弱かったので、長らく王権直属の艦隊を編成できなかった。そこで当時の強国、エスパーニャ、ポルトゥガルの商船(アメリカ大陸からの財宝を積載していた)を襲うために、イングランド人の冒険商人=海賊たちに王は特許状を与えた。
こうして「合法的」に外国の船舶を襲撃=私掠させ、財貨を強奪させ、その収益の分配にしたたかに王室もあずかることになった。それも世界貿易=商業の立派な1部門だった。
海賊船長、私掠事業者をprivateerと呼ぶが、そこには民間の企業家、起業家という意味も込められている。
というわけで、発足当時のイングランド王立海軍は大半が海賊船団からなっていた。資力のない海賊では、エスパーニャ艦隊のように大射程の大砲を備えた新鋭艦を保有できなかった。
しかし、結果はイングランド艦隊の圧勝だった。なぜか。
そもそも、エスパーニャ艦隊の作戦・目標が誤っていた。ロンドン沖の近海に迫り、テムズを遡航攻撃して、イングランドの中心都市を制圧しようとしたのだ。
だが、外洋での遠距離航海と縦列隊形での長距離砲撃による海戦にはすこぶる強いアルマーダは、近海や内陸河川での敵味方入り乱れた艦船どうしの接近戦では、能力を発揮できなかったからだ。
イングランドの艦隊は、すべからく旧型の船舶で、その大半が王権公認の海賊船の寄せ集めだったが、乱戦と接近戦にはめっぽう強かった。そして、搭載されていた4輪砲架の後装式大砲は、素早い装填が可能で、短射程での砲撃の精度は高く、方向転換が容易だった。
これに対して、エスパーニャの艦隊は、広大な外洋での規則的な縦列艦隊戦のためにそれまでに訓練した戦法や戦術がまったく適用できなかったのだ。