一方、やや遅れて15世紀、ネーデルラントからフランス大西洋岸、イベリア半島にかけての地域では、ずんぐりした洋酒樽のような船体の帆船=カラベル船が、遠距離海上輸送の担い手となっていた。
カスティーリャとポルトゥガルは、大型のカラベル船を改良して、(島嶼ないし陸地伝いではあるが)アメリカ大陸やインド洋までの遠距離航路の開拓に投入した。
ここでも海戦は、相手の舷側に近づき接舷して乗り込んで刀剣や火縄銃で戦う方式が続いた。
陸上戦では大砲が用いられるようになって、城砦構築やら戦術・戦略が大転換していった。だが、大砲の船舶への導入までには、時間がかかった。
というのは、甲板が高いカラベル船に大砲を設置すると、重心がきわめて高くなり転覆しやすくなるからたっだ。しかし、やがて、甲板の下、船体そのものの船首や船尾、さらに舷側に開口部を設けて、その内部に大砲を据えつけるようになった。
ただし、このような構造の船舶はとてつもなく金のかかるようになり、とび抜けて富裕な商人・団体・都市や王権だけが保有できるスーパー兵器だった。
そうなると、船舶の攻撃力は飛躍的に増大した。けれども、後装式の大砲では、暴発や砲身爆発が頻発した。
やがて前装式大砲が開発されるが、発射の反動による大砲・台座の後方への突進などによる事故が起きた。船体や人員、積荷の破壊・損耗もかなりの量に上ったという。
時代が進み16世紀になると、イベリア諸王国やネーデルラントの艦船は大型化し、もっとスマートなガレオン船が登場する。現代人から見ればまだまだ「ズングリムックリ」の船体だが、甲板はずっと低く、喫水は浅くなった。
戦争の数と面積も増え、マストの数や面積は飛躍的に拡大し、航続距離は大きく伸びた。
技術はさらに革新され、ネーデルラントでは、ついにフリゲイト艦(スマートな船体の快速帆船)が開発され、エスパーニャにも普及した。エスパーニャ王権は、最新鋭の艦船を増産して、あの名高い「無敵のアルマーダ(武装)艦隊」を創設した。
最新鋭のフリゲイト艦の砲撃の射程距離は300メートル以上にも達した。
そして、海戦の戦術が転換した。
彼我のフリゲイト艦隊は、規則正しい縦列(1列の)隊形を編成して、舷側の大砲の列を敵艦隊に向けて攻撃する戦法を取るようになった。
これが、戦列艦(ships in a battle-line)構想で、この思想が海戦の主流戦術となって、蒸気タービン機関の装甲艦船が主流となる19世紀の末まで続いた。
ところが、イングランドでは、船体構造の技術開発はあまり進まなかった。その代わり、大砲の製造技術はかなり革新された。前装式で暴発の危険を激減させ、砲架台座に車輪をつけて、発射の反動による後方への突進を制御するようにした。これを、まだずんぐりしていた鈍重な船体に搭載した。
イングランドは、外洋航海の経験が浅く、近隣海域での海戦しか考えていなかったからだ。
ところが1588年、イングランドは、その技術的に遅れた貧弱な艦隊で、最先端の艦船と装備を誇るアルマーダ艦隊(Grande y Felicísima Armada / Armada Invencible)と、ロンドンのすぐ目の前の海域とテムズの河口で戦う羽目になった。
イングランド王権は、エスパーニャに対して、分離独立闘争をしているネーデルラント北部諸州と同盟して戦っているうえに、ローマカトリックから自立したアングリカン教会を組織運営することで、宗教的にも敵対していた。