18世紀末ごろから、ブリテンは圧倒的な軍事力と金融財政力、そして貿易=供給能力を背景に、ヨーロッパの諸国家と外交上・軍事上・通商上の条約協定を取り結び、力関係の結晶化=固定化をはかっていった。
ヨーロッパ的規模で、強固な同盟や利害ずくの緩やかで日和見的な同盟を組織し、国際関係の統制を試みた。まさにブリテンの覇権=権力による平和(パクス・ブリタニカ:pax
britanica)ということだ。
当時、それなりに統合性を備えた国家はフランスくらいなもので、エスパーニャやオーストリアにしても分立的な諸邦の連合体でしかなく、そのほかの諸地域は弱小な王国や侯国の寄せ集めでしかなかったので、ブリテンのリーダーシップ(金融財政的支援)や威嚇はじつに効果的だった。
そもそもブリテン艦隊に対抗できるものはなかった。
というわけで海運・海商や航海の分野で国家間での戦争のルールや国際法(the law of nations)の取り決めも進んで、主権国家のあいだの交渉と調整によって、戦争と平和の管理を試みるようになった。
こうして海洋でも、敵対・交戦関係にない国家のあいだでは、主要な航路における商船どうしの戦闘はしだいに例外的な逸脱行動とみなされるようになった。主要な航路ではブリテンの艦隊が遊弋するか、商船団の護衛を担っていたのだ。
武装船舶や艦隊のあいででの海戦や小競り合いは多発していたのだが。商船と軍艦との分離・分業が始まった。
ブリテンは17世紀後半から航海諸法(Navigation Acts)によって、ブリテン艦隊が制海権を握る航路=貿易路を通過したりブリテンの海外植民地・属領と取引したりする船舶に、ブリテンの諸港への寄港と納税を強制していた。
違反する船舶には(密貿易船として)艦隊が攻撃を仕かけ、積載した財貨を没収していた。こうして、ヨーロッパの多くの都市や商人は、海外貿易ではブリテン籍の船舶を利用するか、かなりの税を納めてブリテンの港を経由する貿易をするしかなくなった。
こうして、ブリテンは自己中心的に世界貿易網を組織化しようとしていた。
ところで、ブリテン中心の同盟の対抗相手はフランス王権だった。17世紀末から、ネーデルラント連邦はブリテンの格下の同盟者となっていた。そのため、ブルボン王権は頻繁にネーデルラントに攻撃・遠征を仕かけた。
18世紀をつうじて、ヨーロッパ大陸、地中海、バルト海、大西洋・アメリカ大陸で、ブリテンとフランスとの闘争が展開された。その結果は、フランス王権の深刻な財政危機と統治権力・権威の崩壊だった。
植民地の奪い合いや開拓、統治は非常に金のかかる仕事で、ブリテンもフランスも王権財政はいつも逼迫状態だった。しかし、ブリテンは自己中心的な貿易関係を組織していて、利潤が本国商業資本や都市に還流する仕組みを打ち立てていた。
それでも、北アメリカ植民地の統治費用の負担をめぐって東部植民地と深刻な対立・敵対にいたり、北アメリカの分離独立闘争が勃発したほどだった。ブリテンに対抗するフランス王権は、独立派を支援した。
戦争でブリテンは敗北したが、もはや植民地の統治費用・軍事費を負担する必要がなくなったうえに、北アメリカをそっくりイングランド中心の世界貿易ネットワークのうちに取り込むことができた。アメリカ独立諸州もまた、経済的再生産のためにはブリテンの世界貿易網や金融組織に依存するしかなかったのだ。
さて、財政危機が続いた18世紀末、フランスでは深刻な統治レジームの麻痺と反乱、秩序の解体が進んでいった。その結果が、革命とナポレオン独裁による新たな形態での「国民的統合」秩序の形成、自意識過剰の「国民国家」の出現だった。