とはいえ、単一の国民国家の指揮命令系統で組織運営される海軍をつくりあげたのは、19世紀になってブリテンが最初だった。それまで長い間、艦隊は「国家の海軍」ではなかった。
そもそも、市民革命後の試行錯誤を経て18世紀にブリテンが中央政府の財政組織を議会による統制のもとに置くまで、艦隊を国家の中央政府が編成する能力をもつことはなかった。
それまで、ブリテンでさえ戦闘艦艇や艦隊、すなわち海洋軍事力は、個別の商人団体や都市団体が編成していた。やがて、商人団体や都市が強大な王国(絶対王政)に統合されてからも、艦隊を直接統制する業務は個別の商人団体や都市に権限として残された。
あの無敵の武装艦隊も、ルイ14世治下のフランス王権の海軍も、個別の都市や商人団体(貿易会社)が編成した艦隊の寄せ集めで、それらの艦隊司令部の指揮下に置かれていた。
ブリテンの中央政府は、長い時間と試行錯誤を経て、国内各地の艦隊を統合し、私掠船団(海賊船)を統制して、中央政府の言うことに従う連合艦隊を組織した。
ほとんどの国家が連邦や連合王国だったヨーロッパで、域内の艦隊や武装船舶を中央政府が掌握・統制する海洋権力=海軍に組織化する事業に原理上はじめて成功したのは、ブリテンだった。
ただし、18世紀後半まで、世界で最大の艦隊を保有する東インド会社を効果的に統制することができなかった。19世紀はじめまで、世界最大の軍事力、とりわけ最大の艦隊を保有したのは、ブリテン本国ではなく、この会社だった。
最先端の造船技術をもつブリテンは、19世紀末になると、蒸気タービン機関で推進して、鋼板による装甲(舷側と甲板)を備えた軍艦を生み出した。それまでと比べて速力や防御性能が桁違いになった。
しかも、スマートな船体で重心を低くして、大口径の主砲塔(自由に回転する)を甲板に設置し、艦橋にも銃砲を搭載できるようになった。
それまでの帆船とは、まったく次元の異なる海洋軍事力の出現だった。破壊力、防御力、速力と航続距離など、世界の海軍の戦略と戦術をすっかり組み換えていった。
もとより、海軍を組織運営するための国家の財政負担もまた桁違いになった。諸強国(をめざす諸国民)は、税制と財政の転換を強いられた。
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これにともなって、1列の縦列隊形の戦術は後退し、散開縦列隊形での砲撃戦が主流になっていった。やがて蒸気タービンは、重油エンジンに置き換えられていく。
ところで、この時代に「日本は日露戦争」で、地球を3分の2周して疲弊しきったロシアの艦隊を打ち破り、得意の絶頂にたった。
が、連合艦隊のとった縦列隊形の艦隊戦術(T型戦術)は、そのときすでにすっかり「時代遅れ」になっていた。しかし、このときのきわめて限定的な「成功体験」が日本の海軍・連合艦隊の構造的弱点をもたらしたようだ。
彼らは、この時代遅れで限定的な勝利の意味合いを海洋権力と海戦の歴史のなかにしかるべく位置づけて省察する知性や態度を持ち合わせていなかった。
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さて、1910年頃から40年代かけて、ブリテンの世界覇権は失われ、覇権ないし最優位をめぐる列強の軍事的対抗は激化していく。
現在から見れば、ブリテンのヘゲモニーの衰弱・喪失と、新たに世界の最優位に立った合州国のヘゲモニー・システム(と意思)の欠如(と国際的なヘゲモニー装置の未整備)によって、世界秩序の空白が生じ、そこに起きたのがヨーロッパを主戦場とする2つの世界戦争だった。ドイツは2度とも、ヘゲモニーへの挑戦に敗れた。