ボクは坊さん。 目次
四国巡礼路の寺の坊さんの物語
いつか坊さんになるだろう
住職になるということ
瑞円の遷化と剃髪
光円(進)の生い立ち
和尚になってみると
自分らしく住職を務めると
無力なボクにできること
長老の死去
逝く人に手向ける言葉
おススメのサイト
人生を省察する映画
サンジャックへの道
阿弥陀堂だより
アバウト・ア・ボーイ
のどかな信州の旅だより
信州まちあるき

自分らしく住職を務める

  ともあれ、大学時代に仏教学や密教を学んでいた頃の想いを再確認した光円は、現代の社会生活にも仏の教えが役立つことを人びとに伝えていこうとして、住職マーケティングを推進することになった。
  もちろん、早朝の勤行や境内の清掃、葬儀、縁日の札配り、宗教法寺としての寺の法務、そして業界団体としての仏教界や霊場会への出席などの業務もある。
  そして、寺独自のグッズとしての数珠やお守りを企画して売り出すとか、仏の前に近隣住民が集まり交流する場として立派な「演仏堂」――現代風建築――を建設したりした。

  たしかに光円だけにしか思いつかないアイディアで、思いついたら即実行。だが「行き当たりばったり」「悪あがき」にも見える。
  だが、檀家会の長老、新居田は、疑問を投げかける。つまり、それが正しい方向を向いた心が求めるものなのか、と。「近くして、見がたきは、我が心」という弘法大師空海の言葉を光円に伝えた。
  それは、有形の建物や物品などを備えることよりも、まずは自分にとって「正しい心の向き」は何かを考え心を整えろというメッセージだった。素直な光円は、長老の批判を受けて、壁にぶつかり悩む。
  そんな光円を「住職らしくなった」と励ましてくれるのは、妊娠してお腹が大きくなった京子だ。幼なじみはありがたいものだ。

  仏僧が逆に市井人から教えられ、その教えの重さに悩んだところを、これまた市井人(幼なじみ)によって諭されるというわけだ。この映画は深い!
  真言宗も含めて仏教は、いやヨーロッパの哲学の神髄もまた、路傍の石や草からも宇宙の真理や摂理を学ぶべきだということだ。そこに石や草があるという事象は、この宇宙の総体的な連関のなかで、無数の因果関係が絡み合った結果として生じ来たものだ。だから、そこにも宇宙の摂理の一端が垣間見えるということだ。
  すぐれた仏僧は、一般の民衆や市井人からも教えを乞い学ぶものなのだろう。

  ところで原作によれば、事物や事象がそれだけで単独で存在するという見方を否定・批判し、あらゆる事象・事物を宇宙の総体的・包括的な連関のなかに位置づけて考える相のことを「空」というのだという。空とは「何もない」ことではないというわけだ。

  ある日、光円は近くの寺の住職から呼び出しを受けてその寺を訪ねた。用向きを尋ねると、住職は野球ユニフォーム姿でバットを担ぎながら、この地区の住職たちの野球ティームへの参加を促した。
  光円が快く野球ティームへの参加を引き受けてから最初の試合の対戦相手は、なんと長老の新井田が監督をしている地元の農家のティームだった。

  ところが白熱した試合で奮闘している光円のもとに、父親が急報を持って駆けつけた。京子がお産の最中に脳内出血を起こしたらしい。無事男の子が生まれたものの、京子は意識不明のままだという。
  病床近くに付き添っていた京子の父親は、先頃妻を亡くしてから酒びたりで、その日も相変わらず酒に逃げていた。
  病院の医師によれば、昏睡状態が続く京子はこのままずっと目覚めないかもしれないという。しかもまもなく京子の夫は、京子と離婚してしまう。
  近代の家族制度としての結婚=婚姻は、男女両性の意思によって成り立っている。したがって、どちらか一方が相手に自立的な意思行為をおこなえなくなると、それは離婚の正当な理由になる。
  京子の幼なじみの光円と真治は、離婚の直前に夫にかけ合いに行ったが、「妻が植物状態になった自分の身になって考えてみろ」と反論されただけだった。

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