光円の母親は、息子の部屋に駆け込んで語りかけた。
「先日、赤ん坊を挟んで、京子さんのお父さんとあなたが語り合っている姿を見て、ご長老はこう言ったのよ。
『弘法大師様と光円とを同列に比較することはできないが、若いときの弘法さんは自分の心の想い立つままに行動した。その姿は光円の今の姿と重なるようだ』って」
栄福寺の跡継ぎの住職として認めてくれていたのだ。枕経や葬儀を取りおこなって僧として逝く者に礼を尽くし引導する役目を果たさなければならない。
若い住職の悩みや試行錯誤を見守り、理解してくれていた新井田の死を見送る役目は、何としても自分がやろう。そう決意した光円はすぐに僧衣に着替えて、新井田家に駆けつけた。
おりしもそのとき、枕経が始まろうとしていた。
「遅れて申し訳ありません。
ボクが枕経をおこないます」 そう言って、光円は代行を頼んであった住職と交代した。枕経に続いて葬儀がおこなわれた。
葬儀は明るくおこなわれ、住職の言葉として光円は、
「故人は、勤勉な農民として一生懸命に生きた人生を終えて、穏やかな『本来の世界』に帰ってきました。人の生涯とは、生まれる前と死んだ後の静穏な状態のあいだの特殊な状態であって、あの世に旅立った個人はようやく安楽の状態に戻っていったのではないでしょうか」
と葬儀への参列者に語りかけた。
個人の死を悲しむというよりも、その生きざまを讃え、安らかな世界に旅立ったことをむしろ祝福する、自分らしい送りの言葉だった。それは多くの参列者の共感を呼んだようだ。
法話や説話を自分の口から、自分の心を介しておこなおうとする姿が好ましい。「立派に葬儀を執り行った」と光円を褒めて、栄福寺の住職としての役割を託すに足る僧だと認めてもらえたのだ。
こうして、四国霊場の札所寺院の住職としての光円は毎日、一歩ずつ前に進んでいく。
悩みながらも、少しずつ住職が板についてきた、そんな日々の勤めの合間に、小さなエピソードがあった。
広太が居酒屋の娘をともなって四国巡礼の旅をしていて、栄福寺に寄ったのだ。2人は意気投合したため、婚約までしてしまったという。
「まったく俗念の塊のような巡礼だ」と軽く批判しながら、光円は親友の婚約を祝福した。ああ、そういう形の巡礼もありなのか!?
と私は、この映画の深さに感銘した。
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