家に戻ると、ジャマールはパックを開けてみた。大切なノートは全部あった。手にとってペイジを開いてみると、ジャマールが書いた考察の覚書や文章には赤字で丹念に添削され、助言や評価が書き込んであった。「表現が曖昧だ」とか「具体的に例示せよ」とか「この文章表現は秀逸だ!」というように。
そして、「もう2度と部屋に侵入しないという謝罪文を5,000語で書くこと」という課題が提示されたメモが入っていた。
ジャマールは、添削や助言、指摘の鋭さと的確さに舌を巻いた。まさに当意即妙で、これまで求めてきた指針のような気がした。それで、あの老人への尊敬の念(近づきたいという願望)もあって、一心不乱に謝罪文に取り組んだ。
翌日の放課後、昨夜書き上げた謝罪文をもって、あの老人の住む共同住宅に行った。
おりしも、住宅の下の道路にはBMWが駐車していて、若い男が住宅から出てきた。その男はときどき、老人を訪れるらしい。ジャマールが車に近づくと警報が鳴った。それをきっかけに、ジャマールは若い男と話すことになった。
貧困な黒人居住区の住民がドイツの高級車のことなんか、という風情で男は車を自慢した。が、ジャマールは言い返すように、バイエルン・モーター工業(
Bayerischer Moterenwerke : BMW )という企業の詳細な来歴――もとはヨーロッパ最先端の航空機エンジンの開発会社で、ナチスの軍備に協力したため、戦後航空機関連の製造を禁止され、自動車製造に転換したことなど――を語った。
さて、若い男と入れ違いに、ジャマールは階段を上がって老人の部屋の扉の前まで来ると、ノックした。だが、反応はない。続けてノックすると、扉の小さな覗き窓から老人が目を覗かせて「何の用だ」と尋ねた。
ジャマールは「謝罪文を書いてもってきた」と答えたが、部屋のなかからは、それきり反応がなかった。仕方なく、彼は扉の下の床に謝罪文を置いて建物を出た。
あくる日、ジャマールの高校に、メイラー・キャロウ高校のスカウターが訪れ、ジャマール本人と母親、そして担任と校長を交えて面談することになった。
スカウ係トは、ジャマールの転校にさいして、奨学金制度で学費は無料となること、勉学だけでなくバスケットボール選手としての資質にも期待しているので、この面でも学校に貢献してほしいこと、転校するかどうか決めるために見学に招待すること、などを説明した。
メイラー高校のスカウトが高級車でやって来て去る様子を、あの共同住宅の窓からフォレスターは双眼鏡で見ていた。
その日の放課後、ジャマールは老人を訪ねた。部屋の扉の下の床には、きのう出した謝罪文用紙が置いてあって、これまた添削が加えられていた。ジャマールはノックして老人を呼び、部屋に入れてもらった。
ジャマールは、ブロンクスの古びた共同住宅に隠棲する老人が卓越した知性と、これまでに見たこともないほど優れた文章家であることに、強い関心を抱いていた。とにかく、この不思議な老人に近づきたかった。ことにきょうは、悩みを抱えていたからかもしれない。
ジャマールを見て老人は言った。
「きょう、メイラー高校のスカウトが来たね。それで、君は転校すべきかどうか迷っている。…君のことは何でもお見通しさ。…いまの学校では、もう何も学ぶことはないと思っている」
ジャマールについては不躾に観察した一方で、自分のことについては詮索するな、と老人は言い切った。ジャマールは、老人のことをよく知りたいと思っていたので、割り切れない気持ちを抱えて、部屋を出た。