小説家を見つけたら 目次
原題と原作について
見どころ
あらすじ
ジャマールの日常
ヘッドハンティング
隠棲する偏屈老人
侵   入
謝 罪 文
スカウトの申し出
超名門校、メイラー・キャロウ
ジャマールとフォレスター
名門高校での生活
フォレスターとクローフォード
文章技術の訓練
ふたたびの情熱
ティームのライヴァル
クレアの接近
偏見と嫉視
窮   地
孤独な戦いと友情
外したフリースロー
「信義を全うする時季」
最後の旅立ち

ふたたびの情熱

  ある日、フォレスター――長いあいだ俗世間と隔絶して生きてきた――はジャマールとともにニューヨークの街中に出かける「冒険」に挑戦した。ジャマールが「ヤンキーステイディアムに行こうよ」と強引に誘ったのだ。
  フォレスターにとっては困難な冒険だったが、その冒険に挑戦しようとしたのは、ジャマールが自分を十分に説得させるに値する信頼できる友人だと認めたからだろう。
  数十年間も戸外に出ていないフォレスターのリハビリテイションだ。
  おもむろにジャマールの隣に寄り添って、あるいは後ろについて通りに出たフォレスターは雑踏の街路を歩き、地下鉄の駅に降りて電車に乗り込み、ようやくヤンキー野球場に着いた。
  途中で、ジャマールの買い物を待つあいだに、フォレスターが圧迫するような人の波に酔い、追われるように場所を移動して、ついに地下街通路に崩折れてしゃがみこんでしまうハプニングがあった。なにしろ、雑踏を経験したのははるか昔のことなのだ。しかも、混雑の度合いは圧倒的にひどくなっている。

  初冬のヤンキーステイディアムの観客席には誰もいなかった。閉鎖期間中だった。冬のニューヨークの日没時刻は早い。すでにあたりは暗くなっていた。
  それでも入場できたのは、ジャマールの兄テレルの計らいだった。その日、テレルといっしょの当番だった同僚が、呆れたように言った。
「おいテレル、あの2人は無人の球状に入っていっちまったぜ。どうするつもりだ。大丈夫かな」
「平気さ。あの2人がこれからワールドシリーズの試合をやるってわけでもないさ」
  ジャマールの案内で、宵闇に包まれた球場に入ったォレスターは、スタンドからフィールドに降り立った。そのとき、すべての夜間照明が点灯した。浮かび上がったダイヤモンド(内野)と外野、そして高いフェンスとバックグラウンド掲示板。


  そのとき、フォレスターは少年時代、兄に連れられてしょっちゅうこの球場に足を運んだことを思い出していた。ヤンキーズの全盛時代。怒涛のような観客席の歓声。心躍るような興奮。
「アヴァロンを捜し求めて」の主人公のモデルは兄だった。その兄はおそらく戦場での異様なストレスが原因で、戦争から戻ると人格が変わっていた。映画では詳しく語られないが、ひどい放浪癖に陥ったようだ。何かを追い求めるように、漂泊し行方を絶ったらしい。
  だから、兄を慕う弟フォレスターにとって、兄とともに球状の熱気に浸ったあの瞬間、あの日々が、かけがえのない記憶だった。
  おそらく、兄を失った衝撃を癒すために、自分の心の整理をつけるために、フォレスターは小説を書いた。天才的な文章家がたまたま発表した物語は、アメリカ中できわめて多数の読者の心を捕らえた。

  従軍した兄が戦地から戻ると、性格が変わり放浪癖に取りつかれたという物語を書いたというフォレスターの人物・状況設定は、非常に興味深い。残酷な戦場体験者のPTSDを描いた作品を、おそらく50年も前に書いたという設定なのだから。

  だが、その分、多くの批評家の「飯のタネ」にされることになった。なかには、フォレスターの心が耐えられない苦痛を感じる評論もあった。文学作品を発表・公刊するということは、作品が――物語としても商品としても――独り歩きするがゆえに、そういうことなのだ。ゆえに、以後、小説の発表をやめ――有力誌向けに随筆や評論を執筆するだけにして――フォレスターは世捨て人になったらしい。
  ジャマールとテレル兄弟の粋な配慮で、フォレスターは、懐かしい光景、懐かしい感激を心に取り戻すことができた。それはフォレスターを新たな行動に突き動かす情熱( driving force )を生み出したようだ。

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