さて、ハワード・ペイジのシンクロメッシュをめぐるリチャード・ハンターとの確執の経緯を知ったフォイルは、ペイジに面会を求めた。
そして「リチャード・ハンターはオクスフォード大学ではあなたの研究仲間だったことを隠しましたね。 しかも、あなたは彼が発案したシンクロメッシュのアイディアを勝手にアメリカに持ち出して実用化して大儲けしたのではないですか」と問い詰めた。
しかし、ペイジは「あの発案は私とハンターの2人の共同作品だ。ハンターには実用化する能力がなかった。実用化に成功したのは私なんだ」と言い張った。
事情聴取は「水かけ論」で終わった。
フォイルとしては、ハンターが発案を盗用したペイジを責めて脅したため殺害したのではないかと犯行の動機を追及したかったのだが、何の証拠もなかったため、それ以上の追及はできなかった。
別れ際にペイジは勝ち誇ったように言い捨てた。
「フォイルさん会うのは、これが最後ですな。私は明日の朝、アメリカ行きの便に搭乗しますよ」
ペイジを追い詰める証拠を得るため、フォイルは軍情報部の監房に収容されているハンス・マイヤーと接見した。
ハンスは今や死刑を待つ身だった。もはや失うものは何もない立場にあった。
ハンスはあの夜目撃したことを証言するのと引き換えに、「別れの言葉」をドイツに住む老母に伝えてくれとフォイルに頼んだ。
ハンスはフォイルを深く信頼し、敵国ドイツに住む母親に伝言を届ける方法を考え付くだろうと確信したのだ。
フォイルは、証言を得るための苦し紛れの「口から出まかせ」ではなく確信をもって「わかった。約束する」と請け合った。
おそらく、ハンターはUボートでヘイスティングズの沖合に運ばれ、そこで艦外に出て、小舟で海岸をめざしたのだろう。無謀な任務だが、おそらくゲシュタポによって家族や年老いた母親を人質に取られて強制的にスパイとしての潜入任務を命じられたのだ。
そんな国家に対してハンスはもはや忠誠心を保持していなかった。むしろ、戦時下でも市民社会の秩序を守ろうとして殺人事件を追いかけているフォイルに親近感を抱き、信頼したのだろう。
ハンスはあの夜見た光景を語った。
電灯が点滅したロムニー岬をめざして小舟を漕いでいたハンスは、海流によってかなり西に流されてしまった。浜辺に近づこうとしたとき、海岸の丘の方から銃声が聞こえた。直後にガラスが割れるような音もした。
ハンスが身を伏せながら見上げると、丘の上で男2人が向かい合っていた。そして、数瞬後、一方はひざまづき、もう一方は立って腕を伸ばしていた。そして再び銃声がした。
立っていた男がひざまづいた男の頭部を銃撃した様子だった。
ヨーロッパ大陸の戦場ではもちろん、空爆攻撃下のブリテン国内でも「国家対国家の軍事的敵対」による殺戮は日常的な事態となっている。そんな状況下でも、人は欲得という個人的な動機で人を殺してしまう。
国家対国家の戦争のなかで市民社会総体の枠組みが危機に瀕し揺れている――――戦場では多数の人びとが殺されている。国家間の利害敵対という原因で、国家に命じられた大量の殺人が繰り広げられているのだ。しかるに、本国社会では個人対個人の小さな利害関係が原因で人が殺されている。
決死の覚悟でヘイスティングズの海岸に上陸したハンスは、皮肉めいた世の中のありさまを眺めたのだろう。
だがしかし、市民社会の大枠を総括する国家の戦時危機のもとでも、殺人事件によって攪乱され、棄損された市民社会の秩序を修復し守ろうとして、フォイルは犯罪捜査を遂行している。フォイルとしては警察に勤務し続けたいわけではない。だが、誰かが市民警察の担い手として、犯罪を捜査し市民社会の秩序を守らなければならない――たとえばフォイルは犯罪捜査の専門家として事件に向き合っている。
ハンスはフォイルの言動や人物に、そういう覚悟とプロフェッショナリズムを垣間見たのではなかろうか。だから「戦争のさなかでも殺人事件を捜査するのかい」という問いを発したのだろう。