ところで、戦況だが、
1940年8月下旬からはブリテン国内の飛行場と軍事施設へのドイツ空軍による猛烈な爆撃が展開され、9月の初旬からはロンドンをはじめとするブリテンの大都市と工業施設への大規模な空爆が開始された。⇒関連記事
とはいえ、ドイツの海洋権力はもともと相当に貧弱で、制海権を握っていたのはバルト海ぐらいのものだった。超弩級戦艦ビスマルクは、海軍の戦略体系からはすっかり外れていて、華やかな装飾品にすぎなかった。
ドイツ海軍の海洋での戦闘はもっぱらUボートによる通商破壊に限られていた。したがって、連合軍側の戦闘艦艇を攻撃する作戦は極力避けられていた。
そんな戦況にあって、旧型とはいえ50隻もの駆逐艦がアメリカからブリテンに供与され、北海や大西洋などに配備されれば、ドイツ海軍のUボートの作戦行動は大幅に抑制されてしまうことになる。
かくして、1940年晩秋からは、Uボートの出撃成果はきわめて悪化し、翌年、アメリカ軍が参戦してからは連合軍の戦闘艦艇から逃げ回るしかなくなっていく。
合衆国は第2次世界戦争中、ヨーロッパ諸国に兵器などの軍事物資の譲渡や借款・融資などの形態で支援をおこなった。本来は代金支払いや償還・返済を条件とするものだった。
ところが、主戦場となったヨーロッパでは破壊や荒廃が激しく金融制度も解体状態になってしまったことから、戦争後の復興・再建戦略ではマーシャル・プランによってほとんどが無償の支援に置き換えられたり、償還期限が長期の低利借款に切り換えられたりした。
というのも、アメリカとしては冷戦構造が構築され始めたので、ドイツやイタリア、日本など敗戦側の枢軸諸国の急速な復興・再建をも同時にめざして、西ヨーロッパと極東をアメリカ主導の金融循環の体系に編合する必要に迫られたからだ。
アメリカは莫大な財政・金融資金の供給を担ったのだが、それによって資本の世界市場循環を組織化し、ヨーロッパと日本を工業製品の販売市場ならびに金融市場として取り込み、自国企業の国際進出の基盤を確立できた。
かくして合衆国のヘゲモニーは完成されることになった。
ブリテン国家はこの過程をつうじてアメリカに金融的・軍事的に従属するIMF/IBRD主導の国際金融システムと北大西洋同盟体制NATOに組み込まれることになった。
一方、ドイツはブリテン空爆に航空戦力の大半を無理やり投入してブリテン側に講和を受け入れさせようと必死になっていた。「大口叩き」で「見栄っ張り」のゲーリングは、ブリテンの制圧を公言したが、6か月以上にわたる戦略的な展望を持ち合わせていなかった。
そのため、この年の10月にはドイツは航空戦で深刻な息切れに直面する。戦況は膠着し、やがてヨーロッパ全域と北アフリカまで伸び切ったドイツ側の戦線は足元から綻び始めていく。1942年には、戦線の大きな後退が目立ち始める。
ドイツの攻勢が目立つのは、スターリン独裁体制下の強硬な収奪で疲弊し、戦争準備が立ち遅れていたロシア戦線だけだった。
とはいえ、ドイツ軍総司令部は戦況の不利を認めなかった。主観的な願望に依拠した彼我の戦力把握によって、無理無謀な作戦を前線の軍に押し付けることになる。
そんな無理のツケを支払わらされた代表格が、北アフリカ戦線の司令官、ロンメルだった。賢明なロンメルはヒトラーの無茶な要求を巧妙に避けて、1942年中にドイツ軍の北アフリカ戦線からの撤退戦略を指導した。
だが、このあとヒトラーはロンメルを冷遇した。しかし軍内部では――軍事理論と実戦に関するヒトラーのひどい無知無謀が暴露される一方で――ロンメルはきわめて高い声望を得ていたため、陸軍の指揮系統から外すことはできなかった。そこで、やがて暗殺未遂事件の後に、家族を人質にして彼を服毒自殺に追い込むことになる。