イタリア戦争とヨーロッパ 目次
ヨーロッパの地政学的構造の転換
君侯や領主たち
遠距離商業と都市の権力
「南の極」と「北の極」
都市支配型の経済から国家支配型の経済へ
都市を凌駕する王権国家
王室財政と都市=商業資本
イタリアの悲劇
イタリアの地政学
神聖ローマ帝国
都市国家群
教皇派と皇帝派の対立
地中海世界
イタリア社会の臨界点
異端運動と宗派紛争
国家の権力と教会の権威と
知識人専門家の登壇

王室財政と都市=商業資本

  なにしろ、新たな諸王権は、まだまだ幼弱ではあったが、域内の有力諸都市を王権に服属または同盟させ、強固な担税基盤=財政基盤として掌握し始めていた。
  もっとも王室財政としては、本音のところで、北イタリア諸都市の商人の力(王室金融)に大きく依存してもいた。
  だが、域内の商人も王権と結びついた団体を形成し始めていて、こそれまでは全面的にイタリア金融商人に依存していた王室が、財政基盤の強化のために域内経済の育成の必要性を痛感し始めてもいた。

  しかし、エスパーニャだけは例外で、自国の商人の自立的な団体は育たなかった。王室に対して貴族は強い免税特権を保持していて、その分、商人への課税が苛烈だった。そのため、功成りとげた有力商人たちは貴族の身分を買い取って、商業そのものから引退してしまう傾向が続いたからだ。
  王室は財政=金融においては、ジェーノヴァなどのイタリア商人に依存していた。
  そのため、エスパーニャは17世紀の終わりまでに完全に没落してしまった。

  この時代、王権がより強大な軍事力を確保するためには、有力な商業資本と結託して、強固な財政基盤を永続的に構築しなければならなかったのだ。域内の有力商人を「新たな貴族」として王権の支持基盤に統合して、「国民」として永続的に組織化しないと、ヨーロッパでの通商戦争や戦争では生き残れなかったのだ。当時の国民とは、王権による統治に参加する少数の特権諸身分を意味した。
  こうして、15世紀になると、ネーデルラントの諸都市が近隣の君侯と同盟して緩やかな政治=軍事的まとまり(連合)を形成し始めた。

  それを追って、それまではヨーロッパの辺境だったイングランドで、ロンドンの冒険商人組合が、王権との緊密な同盟を構築し始めた。
  イングランドはすでに13世紀に、域内の主な地域では多数の関税圏への分裂という状態を克服していた。16世紀には、イングランド王権とロンドン商人とは単一の政治的・軍事的ブロックを形成して、世界貿易での競争に参入していった。


  フランス王国の版図は、当時としてはけた違いに広大で、域内貿易はまさに遠距離貿易、世界貿易にも匹敵した。王の名目的支配地でさえ、無数の関税圏に分断されていた。
  けれども、パリを中心とする北部の商業諸都市と商人団体は、ネーデルラントやイングランドとの通商戦争のために王権による統合=集権化を強く支持していた。ここでも、宮廷の都市商人との同盟が構築され始めていた。
  パリなどの諸都市の有力な商人家系は、没落した貴族から土地と称号を買収し、やがて数代を経て有力な貴族身分に成り上がり、なかには王室の顧問官として王権の政策を左右するほどになっていた。

  ヨーロッパの諸王権では、王室の官職身分を富裕商人に販売するのが常態となっていた。巨額の支払い(つまり王室財政への顕著な貢献)と引き換えに、王権を支持する富裕商人を貴族の列に加えたのだ。
  そうしないと、諸王権の軍事的対抗のなかで武装や戦役に必要な財政基盤を確保することができなかったのだ。

  一方、都市と商人団体から見ると、ヨーロッパの貿易闘争では、強大な王権との同盟=ブロックを形成できなければ、やがて脱落するのは必然だった。
  域内の商人と都市を単に財政的収奪の対象として、いつまでも貴族の免税特権を認めていたエスパーニャ王権は、17世紀になると急速に没落していった。
  カスティーリャの王権は、ついに本格的な絶対王政を構築することはできなかった。17世紀末、ついに王家は絶え、フランス王ブルボン家の分家(ナバーラ王室)がエスパーニャ王位を手に入れ、分裂気味のエスパーニャ王国は軍事的・政治的にフランス王権に従属するはめに陥った。

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