一方、有力諸都市は、地中海世界貿易での優位をめぐっても争っていた。
早くも11世紀には、東方教会の燦然たる権威のもとで繁栄するビュザンティウムの商業権益をめぐって、ヴェネツィアとジェーノヴァが激しく角逐していた。ほかにフィレンツェなどの諸都市も続いて、地中海貿易での勢力争いに乗り出した。
北イタリア諸都市の商人たちが築いた交易路に沿って、地中海東部への植民や十字軍運動が繰り広げられることになった。
これらの商人たちは、ヨーロッパの十字軍遠征運動をしたたかに利用して、地中海東部(アナトリア、レヴァント方面)に通商と軍事の足場を築き上げ固めていった。
そして彼らは、一方で、十字軍という「異教徒討伐」を支援しキリスト教ヨーロッパ人に商業的に物資を提供しながら、他方では、エジプトのイスラム太守にも武器や戦略物資を売り渡して、しこたま利潤を稼いでいた。
とはいえ、イスラムの勢力はしだいに強大化してビュザンツ帝国を圧迫するようになる。この圧力からコンスタンティノポリスの皇帝権威を防衛したのは、主にヴェネツィアのガレー船艦隊だった。
ヴェネツィアは地中海東部の諸島や沿岸部の要衝に多数の軍事・交易の拠点を築いていて、その通商=軍事ネットワークが、イスラムの進出圧力を防いでいた。
レヴァントと地中海東部の交易拠点は、当時、きわめ値の張る南アジアや中央アジアの特産物=奢侈品(陶器、貴金属、香料、絹など)がヨーロッパに向かうために通過する中継地点だった。だから、そこをお押えておけば、絶大な貿易利権と権力が保証されたのだ。
コンスタンティノポリスの皇帝の権威を守る見返りに、黒海沿岸やバルカン半島、アナトリア方面でヴェネツィアは大きな通商利権を与えられていた。
というわけで、15世紀までは、地中海東部での優越を土台に、ヴェネツィアが地中海貿易での最優位を手にしていた。
こうして、総じて北イタリア諸都市は、実り豊かな地中海貿易を基盤にして、ヨーロッパ遠距離貿易ネットワークのなかで圧倒的な優位を確保していた。莫大な富と情報がそこに流れ込んだ。
そこでは、住民人口のうち都市居住者の割合が3分の1を超すようになっていた。大きな富は富裕階級の奢侈贅沢を刺激し、また周辺の貧しい民衆をも引き寄せたので、都市人口の膨張が著しかった。
ゆえにまた、都市は貧富の格差、権力の大小の差がおそろしく大きな社会だった。いたるところに紛糾や暴動、反乱の原因がころがっていた。
そして、都市どうしのあいだはもちろん、都市内部での権力をめぐる有力家門どうしの争いや富裕商人と下層民との階級闘争もまた熾烈だった。これらの敵対や反発は互いに結びついて増幅された。
それまで都市社会の内部の秩序や規範を維持するために最大の影響力をもっていたのは宗教で、すなわちローマ教会の教義や権威だった。しかし教会組織も、商業や都市の発達とともに富と権力を追い求め、富の力で権威を誇示する傾向が幅を利かせていた。