イタリアでは12世紀になると、有力な諸都市が周辺の農村や中小都市を自分の勢力圏に囲い込んで、ひとまとまりの排他的な独自の支配圏域=領域を形成し始めていた。つまりそれらは、独特の主権をもつ都市国家をなしていて、互いに支配圏域を拡張した結果、その境界を接するほどになった。
固定した統治の中心部から領土を一円的・一元的に支配するという、このレジームは、ヨーロッパのほかの地域にはまだ存在しなかった。領土とか国境というシステムを持つ政治体がはじめてヨーロッパに現れようとしていた。
これらの都市――団体としての法人格をもつものとされていた――は、その領土の内部では自分よりも上位のいかなる権力や権威の存在も認めなかった。「主権」すなわち「至高の統治権力 souveraineté 」という観念が生まれようとしていたのだ。
ただし、この主権は、この時代には組織や団体全体に属すものというよりも、その支配者の人格=パースナリティに属すものとして考えられていたという。
都市政庁(統治機関)を牛耳っていたのは有力家系からなるいくつかの有力商人門閥で、周囲の農村や都市の貴族領主・騎士身分は、没落を免れるために、門閥勢力と融合するしかなかった。
だが、都市のなかでは門閥家系のあいだの血なまぐさい闘争が続発していた。いくつかの有力家門が拮抗して覇を争っていた。
しかも、これに政治的発言権を求める中下層民衆の運動が結びついた。というのも、ある門閥が敵対する門閥を追い落としたりして自派に有利な状況を生み出すために、民衆の蜂起や反乱を利用しようとしたこともあったからだ。
やがて、多くの都市国家では、激しい紛争のなかで門閥の拮抗関係にもとづく統治制度は崩壊して、独特の都市君主の家門による専制的レジーム(僭主政)が成立する。
とはいえ、この専制は都市内部の諸勢力の同盟による脆い力の均衡の上に成り立っていた。
一方、中央ヨーロッパ=ドイツでは頭抜けて強大な君侯はなく、王位や帝位は皇帝に立候補できる有力諸侯のあいだでの選挙制となっていて、多数派の領主同盟の支持を受けた家門が帝位を受け継いでいた。
シュタウフェン家やのちのハプスブルク家をはじめとする有力君侯が皇帝の位を受け継ぐと、その名目だけにすぎない権威に箔をつけるために、あるいは分立割拠するドイツ諸侯領主たちへの影響力を強めるため、ローマに進軍して教皇から戴冠を受けようと企図した。
帝位を手に入れた諸侯は、そのつど北イタリアでの権威を拡張・誇示しようと試みることになった。
ところでその頃、ローマ教皇とはいっても、その当時は大した権威はなく、もともとはローマの大司教というだけで、ほかの諸都市の大司教と比べて圧倒的な優位を得ているわけではなかった。しかし、神聖ローマ皇帝への戴冠式を司ることで、ヨーロッパで最優位の教会指導者としての地位を得ようと画策していた。
両者の結託で、盛大なイタリア遠征=ローマ行軍と戴冠祝典が催されることになったというしだいだ。そういうときだけ、さびれた田舎町ローマは晴れがましい様相を見せた。
皇帝は帝国の法観念として、イタリアをも帝国の版図に組み入れ、それゆえまたイタリア(ローマ以北)の諸都市に対して、少なくとも名目だけの臣従や帰順を求めることになった。
だが、小さな都市国家とはいえ、「国家主権」の至高性を唱える諸都市は、皇帝の権威の拡張に強く反発した。なかには、巧みに皇帝の権威に取り入って、イタリアでの勢力拡張を狙う都市もあった。
あるいは、1つの都市のなかにこの2つの勢力が並存・対立拮抗して、紛争に発展する場合も多かった。
要するに、対抗し合う諸派閥が自派の権力を増長させるために、皇帝の権威を借りようとしたり、これに反発・抵抗する立場をとろうとしたりしたのだ。それゆえ、皇帝派が卑屈で教皇派が独立志向というわけではなかった。
こうして、イタリア都市国家群の成長過程では、都市どうしのあいだで、あるいは都市の内部を横断して、皇帝派(ギベリーニ: Ghibellini )と独立志向の教皇派(グェルフィ: Guelfi )との権力闘争が繰り広げられた。
同盟や合従連衡の中身や相手はしょっちゅう入れ替わった。
面従腹背、めまぐるしい離合集散は、その当時からイタリア人のお家芸だった。建前と本音を峻別する意識も。
同盟の握手をしたそのときに、相手の寝首を掻く算段を練る始末だった。