物語は、いきなり凄惨な殺戮場面から始まる。
1964年6月21日の深夜、3人の学生が乗ったセダンが、埃くさい南部ミシシッピの田舎道を走っていた。彼らの車には、何台かの追走車が迫っていた。古びたトラックと保安官のパトロールカー、これまた古びた型のセダンだった。
3人は、合州国全体(とくに北部や西部)での公民権運動の高まりのなかで、南部諸州の黒人たちに選挙民登録を促すキャンペインにやってきた学生だった。そのうち1人は黒人、1人はユダヤ人、最後の1人はWASPだった。
車の後部にぶち当たる威嚇的な追走に恐れをなして、速度を上げて逃げていた。が、パトカーの接近に気づいて停車した。
すると、保安官補をともなって荒くれ者たちが車を取り囲んだ。保安官補は、職務質問の振りをして窓を開けさせると、いきなり発砲し、ユダヤ人青年の頭を撃ち抜いた。続いて、荒くれ者たちの一斉射撃が始まった。
こうして、ミシシッピの田舎町で、3人の市民権運動家が消息を断った。
深南部では公民権運動家が人種差別主義者たちによって威嚇され暴力の脅威にさらされているという事実は、各地で深刻な刑事犯罪として噴出していた。そのため、彼らが属する人権団体の捜索・捜査依頼を受けて、FBIの特別捜査官2人がミシシッピ州の片田舎の町に派遣されてきた。主任捜査官のアラン・ワード(ウィレム・デフォー)とその部下のルーパート・アンダースン(ジーン・ハックマン)だ。
映画の物語をわかりやすくするため、この2人は、生い立ちも性格も対照的な人物として描かれている。
アラン・ワードは、一流大学出身のキャリア官僚で、法規を厳格に遵守して捜査を進めるべきだと考えている。これに対して、アンダースンは、もともと深南部出身で、故郷で保安官を務めた経験もあるらしい。現場での捜査や犯罪取り締まりで実績を積んでFBIに採用された、たたき上げの捜査官だ。ときには、違法な威嚇や脅迫まがいの捜査、「おとり捜査」も厭わない。
おそらくアンダースンは、新南部の警察組織が黒人差別や抑圧の直接の担い手となっている事実を嫌悪し、自分がそういう組織に加担することに苦悩・辟易してFBIに転属したのだろう。
アンダースンが、物語の狂言回しの役を演じている。
捜査官2人は、町にやって来ると、保安官事務所を訪ねた。捜査への協力の依頼と情報の収集のためだ。
だが、スタッキー保安官の態度は冷淡だった。3人の公民権運動家たちは、彼らがいったんは拘束したが、解放後、北部に向けて帰っていった、と述べた。だが、言外に、この町にはこの町のルールがあると言って、協力依頼をつっぱねる意向が明白だった。
ティルマン町長もまた、連邦政府機関(FBI)など外部の権力の介入にはあからさまな嫌悪を隠さなかった。
「白人の」町民や郡部の農民たちも、大半は保安官や町長と同じ立場に立っていた。いや、内心では、こうした態度について疑問や批判を抱いていても、外には表さなかった。とりわけ外部から来た人間にはそうだった。
というのも、疑問や批判を少しでも示そうものなら、町のボスとその取り巻きたちの威圧や嫌がらせを招くことになるからだ。それが、この地方での仕事や付き合いを奪い、ときには家族や自分の身の安全さえ脅かされることになるのだ。
「白人たち」は、幼児の頃から「差別思想」「差別意識」、何気ない日常の仕草に含まれる差別の刻印をインプリントされているから、その多数派は、黒人差別や抑圧を「ごく当たり前のこと」(慣習)として受け入れている。
とはいえ、KKKに加盟して、積極的に憎悪を煽り、暴力を揮う者はやはり少数派だ。しかし、周囲の人びとも、世の中や生活での不満の刷毛口を、無意識にこうした差別に求めている場合も多かった。
きわめて不条理で理不尽な形態ではあるが、このような生活風習や文化構造、精神状態が、新南部での政治的支配秩序を組織化し維持するメカニズムの要素だったのだ。こうして、有力層・支配階級の周囲に白人系住民を組織し、とりわけ白人系下層階級をして上層階級に対する抵抗や敵対に向かう動きを阻止せしめる――あまつさえ、彼らを黒人抑圧の尖兵に仕立て上げる――ことになっていた。
このような秩序で黒人や有色人種を包囲し孤立させ、政治的・文化的メイノリティに仕立て上げていたのだ。
だが、私たちは、このような彼らをことがらの上辺だけ見て非難したり、軽蔑したりすることはできない。太平洋戦争の終結まで、私たちの国の多数の人びとは、外国や他民族、他人種への理由のない差別や「大和民族」の優越感に浸っていたのだから。
それが1つの大きな要因になって、破滅的な戦争の泥沼に引きずり込まれ、また、独特の「国民意識」「国民思想」でもって、自ら「虚偽の戦勝」報道に酔いしれ、破廉恥で愚かな軍部指導者の扇動を受け入れることになったのだから。あげく、多くの若者たちを「特攻」に駆り立て、竹槍で近代兵器に立ち向かおうとさえしたのだ。