この映画は、かなり脚色されてはいるが、事件の内容そのものは実際に発生した残酷な殺人事件を土台にしている。そこで、実際の事件の内容(あらまし)を押さえながら、当時のアメリカ社会(とくに深南部)の状況を眺めておこう。
事件が起きたのは、1964年6月21日。ミシシッピ州フィラデルフィアでのこと。
場所の名前は、「友愛の町」「同胞の町」なのだが、有色人種にも平等な市民権を拡大しようとする若者が残虐に殺戮されてしまったのだ。
3人の若者は、ジェイムズ・チェイニー(21歳)、アンドリュウ・グッドマン(20歳)、マイケル・シュワーナー(24歳)。ジェイムズはミシシッピ州メリディアン出身の黒人。アンドリュウは、ニューヨーク在住の人類学専攻の大学生で、ユダヤ人。マイケルもNYのユダヤ人で、職業はソーシャルワーカー。
3人は、公民権運動の教育・啓発の拠点となっている大学で講習を受けた直後に、深南部にやって来た。
1964年から68年まで、アメリカ連邦全域、とりわけミシシッピを中心とする深南部では、「フリーダムサマー」という社会運動が波状的に繰り広げられた。それは、有色人種(とくにアフリカ系アメリカ人:黒人)への市民権の拡大と啓発をめざした運動だった。
若者たちのこの人権運動が、毎年「夏のプロジェクト」として組織され、展開したのは、この期間は大学や高校などが長い夏休みに入り、学生たちが多様な活動に参加する余暇を手に入れたことと、キャンパスが一般市民向けの文化・市民講座に開放され、多くの民衆、ことに若者がこうした講座への参加から有能な市民運動家へと成長していったためだと思われる。
当時、連邦全域では、とりわけ南部では、黒人は政治参加をめぐる市民権から巧妙に排除されていた。市民権を獲得する法律上のポテンシャル(客観的な資格)は保有していたのだが、市や郡、州での選挙人名簿への登録を行わないと、選挙やレファレンダム(住民直接投票)などでの投票権が行使できなかったのだ。
これは、とくに南部ではほとんどの場合、学校教育や社会教育であからさまな人種隔離が維持されていたためだった。白人系の児童・青少年と有色人種系のそれとは初等・中等教育で分離されていたため、教育内容が異なっていた。とりわけ、市民権=公民権教育で。
多くの白人は少年期から選挙人名簿への登録の必要を教育されていた。そのうえ、近隣社会では、ヨーロッパ系市民には州や市、郡の有力諸政党が自分たちの支持基盤を組織化するためにも、名簿への登録をキャンペインしていた。WASPだけでなく、スウェーデン系、イタリア系などの民族文化団体が、自分たちの固有の利害や要求を政治的舞台に届けるために、草の根レヴェルで名簿登録を地道に推し進めていた。
つまり、自陣営の選挙母体を拡大し、選挙戦における数での優位の獲得や劣位の克服をめざしていた。それはまた、近隣社会での地方ボスや政党の地方組織の影響力の増大をもめざしていた。
すでにほかの記事で考察したように、マフィア組織の膨張さえもが、こうした草の根レヴェルでの市民権の拡張と結びついていた。
古くから、アメリカではごく小さな町でも、出身地や言語文化、人種などごとに週間や月間の新聞が発行され、「同胞社会」でのできごとや近隣社会の情報、自分たちの政治的地位の向上のための啓発キャンペインを展開してきている。なかでも、日系人や中国人系の新聞は、質量ともにすぐれたジャーナリズム文化を担ってきた。それだけ、圧迫や差別を被ってきた(ことを自覚して、その克服に努めてきた)という歴史をも物語っている。
ところが、北部諸州や都市部以外の地域では、黒人を含めたマイノリティ集団(アジア系、東欧系、ラテンアメリカ系など)については、選挙人名簿登録や政党や市民団体としての組織化はあまり進んでいなかった。それでも、白人系社会では、名簿登録や組織化の波がおよぶようになっていた。
その動きからもれていたのが、有色人種、とりわけアフリカ系民衆だった。
この状況が、連邦規模での社会的流動性の高まりやメディアの発達とともに、とくに北部の市民権問題に鋭敏な人びとのあいだに広く知られるようになった。アフリカ系市民はもとより、ユダヤ人や進歩的なキリスト教会、マイノリティ白人系市民、WASPにも、この問題意識は共有されていった。
それが市民運動化するのが、1960年代前半だ。
60年代はじめに、ケネディを権力の頂点に押し上げたのも、このような社会的な運動の連帯への動きだった。もちろん、他方で近代化した軍産複合体の支援もあったのだが。
くだんの3人の若者がミシシッピでのフリーダムサマーに参加したのも、こうした社会的背景があってのことだ。