こうしてみると、日本の怪獣映画は綿密な状況設定にもとづいた実写ドラマ(部分的にCGを使う)ではなく、ファンタジー映画といえる。アニメイションにも近い。この点、状況設定という点では、ハリウッド版ゴジラの方が「リアリティでは」ずっと上を行く。やはり、ゴジラが放射能火炎を吐くというところに、状況設定をリアルにする点では大きな限界が生じる。
体内で核反応が起きているということで、生物としての存在性がすでに否定されている。というのも、核反応は生体活動の否定物だから。
生物、より一般的に生命とは、(ある一定期間にわたる)細胞や身体組織や形質の持続的な再生産を意味するのに対して、核反応は核融合か核分裂であって、生命のもとになっている原子の内部構造の転換ないし破壊、つまりは持続的な再生産の破壊=断絶であるからだ。
けれども、わたしは日本のゴジラ映画の方が面白いと感じる。超絶的な存在感がある。
映画で見る限り、物語の状況設定の首尾一貫性ないし統合性、凝集力という点では、日本はアングロサクスンやヨーロッパ人、中国人にはかなわない、そんな気がする。だいたい根が平和主義者だから。
そもそもゴジラは地球上での生物としての存在条件から外れたものなので、リアリティを求めるといっても大きな無理がある。必ずどこかにリアリティの破綻をきたすことになる。だから、むしろ物語をどこまで面白く展開できるかという点に映画作品としての評価基準を置くベきだろう。
それにしても、ファンタジー映画としての面白さや、状況設定や物語が提起している問題を考えてみるには、非常に面白い材料を提供している。ゴジラ映画は、法学部の憲法学の分析素材としてあつかうのも面白いだろう。