ゴジラ & 怪獣映画 目次
考察の視座と課題
はじめに
怪獣映画と私の少年時代
1954年版ゴジラをめぐる問題
ゴジラのスペック
日本の軍事的環境
閑話休題コメント
対ゴジラ軍備と安保条約
特撮映画と戦争
84年版ゴジラと日本の軍事的環境
ゴジラとの戦い
日本の軍事的環境
ファンタジーとしての怪獣映画
広島とフランケンシュタイン
リヴァイヴァル後のゴジラ
ゴジラ対ビオランテ
ゴジラ対キングギドラ
タイムパラドクスのパラドクス
怪獣が破壊した建築物をめぐって
最新高層ビルの「洗礼

閑話休題コメント
  アメリカは現在の憲法(1946年憲法と呼ぶ)の原案づくりと制定過程を誘導したが、最終的には日本の市民=民衆に選択の余地を与えた。ところが、相互安全保障条約に関しては、それこそ市民=民衆にはわずかなりとも選択の余地を与えなかった。日本がアメリカの軍事占領から形式上自立し、国家としての主権を回復するためには、ほかに選択余地がなかった。
  ゆえに、「押し付け憲法」と言うなら、むしろ「押し付け安保」と言う方がさらに事実を言い当てている。しかし、右派の改憲論者は、安保体制については「押し付け」というよりも「無理強い」であった事実には、頬かむりしている。日本のアメリカへの軍事的=国際政治的従属状態は当たり前=所与の前提として、てんと恥じることがない。
  自民党の自主憲法制定路線もまた、自立的な国家の憲法ではなく、アメリカへの従属状態に矛盾なく見合った憲法のせいていであることについては、隠蔽しているわけだ。
  つまり、護憲論も改憲論も、いずれの側も、アメリカのヘゲモニーのもとで敷かれた軌道の上での話題にすぎない。

  私は、法律はさらに市民の権利の拡大や国家の情報公開の進展を進める方向に改革すべきだと思う。自民党や保守・右派勢力とはまるっきり反対の方向への改革が必要だと考える。
  だが、現在の政治的力関係では、憲法の急進民主主義的ないし社会民主主義的な方向への改革は不可能に見える。だから、駆け引き、つまりは戦術的な選択として、「消極的護憲派」として振舞うしかない。
  ただし、いったん憲法が改正されてしまえば、そのあとは政治情勢しだいで左翼的な方向への転換も容易にできるようになることを右翼も覚悟すべきだろう。改憲は、誰にとっても「パンドーラの箱」となるだろう。

対ゴジラ軍備と安保条約

  話を戻して、
  こうして、ゴジラの出現までに、日本が第三の「国家ないし政治体から」軍事的脅威を受けた場合、アメリカ軍が日本の防衛活動を支援=補助すべき、という法的・政治的環境が整えられたわけだ。

  1954年版ゴジラの出現に対応して、国土と市民の生命・財産の防衛のために日本政府が動員できる軍事的手段は、アメリカの監視と保護のもとに統制されたものでしかなかった。
  憲法第9条と自主的=自立的軍事防衛装置の除去という規範は、無謀な戦争に懲りた民衆と、旧来からの支配層が多く残存する政府が思考方法や行動スタイルを切り換えるためにはよかった。だが、暴力装置や強制力を備えた近代国家というものを冷静に分析し制御するシステムを自ら構築する発想を日本の民衆自身が熟慮する機会を失わせてきたかもしれない。
  戦争直後は――軍需防衛産業が占領軍=アメリカによって禁圧されたこともあって、戦車や大砲、戦闘用艦船、戦闘攻撃航空機などは、映画にあるように、すべてアメリカの「おさがり」だった。当時、日本にはまだ固有の軍需産業が育っていなかった。そして、「通常兵器」だけだった。
  ところが、東宝のゴジラ映画は、1954年作品以来、日本はゴジラの出現・上陸・攻撃に対する――当時、法制度上は自衛隊は武装警察隊でしかなく、その軍事力の発動運用は米軍の統制下にあった――軍事的防御を講じるにあたって、軍事的環境の中核ともいうべき「日米安全保障条約」体制「そのもの」については、まったく触れていない。軍事的には日本は、アメリカの腰巾着なのに。
  アメリカも、その世界戦略にとって東アジアで最重要の拠点(しかも首都東京)が、ゴジラによって破壊されようとも、84年版映画での「戦術核の使用提案」以外には、何ら手を差し出していない。ゴジラ映画では、日本政府は兵器によるゴジラ対策では、いつも単独で対処している。
  ゴジラは生物であって「自然災害」と見なされるから、人為としての戦争=侵略には当たらないという法理も成り立つが、自衛隊が数個師団または方面軍以上の規模で最新鋭の兵器体系を運用する限り「災害出動」ではない。純然たる軍事活動だ。
  とにかく法体系上、日本は単独で軍事力を発動運用できないはずだったのだが。

  なぜか。
  おそらく、映画制作陣の誇りと矜持が、そのような現実を受容した「状況設定」を拒否した、あるいは、端から慮外だったからだろう。やはり、芸術家・創作者の集団だからか。
  たかがフィクションではないか、と思う。が、創作もまた、眼前の現実を何らかの意味で反映・照射(それが批判や拒否であっても)しながらおこなわれるしかない以上、制作者たちが置かれた社会状況との緊張関係において作品を見る必要があると思う。

  広島と長崎への核攻撃以来、日本は「核の脅威」に悩まされ続けてきた。それが、大型爆撃機に搭載された原爆であれ、南太平洋でおこなわれたアメリカやフランスの核実験であれ、あるいはウラルやシベリアでのソ連の核実験であれ。
  戦後まもなく、中国では共産党主導の革命が進み、朝鮮半島では戦争が発生した。日本はアメリカ軍の東アジアでの冷戦の前線基地となっていた。日本列島は冷戦構造の構築直後、東アジアでの軍事的緊張の最前線に位置していたのだ。
  ゴジラの出現が核の脅威を原因とするかぎり、映画の作り手の脳裏には、日本の軍事環境が明白に位置づけられていたと思う。ゴジラ映画についての評論や解説では、核の脅威が「生きる核兵器」としてのゴジラに直接に投影されているということが指摘されている。そのとおりだろう。

  だが、怪獣映画の技術そのものが、じつは戦争と抜きがたく密接な結びつきのなかで成長してきたものなのだ。そして、そもそもとして映画産業や映像技術は、――ナチスドイツだけでなくアメリカでも――とりわけ戦争をめぐる政府の情報操作・誘導と密接に結びついて著しく発達成長したのだ。

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