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この物語場面では、千秋真一の方法論=音楽観とジャン・ドナデューのそれとの対決・対比がテーマとなっている。
簡単に比較すると、真一は音楽の構築性・体系性・論理性を追求するのに対して、ジャンはまぶしいくらいの流麗さ・華麗さ――テーマの核はやや曖昧だが、とにかく美しく響かせること――を最重要視する。
門外漢の私としては「?」を感じる。華麗で曲想の輪郭が鮮やかに描かれるなら、曲想の構造や体系も明確に表現されるのではないだろうか。たとえばカラヤン。華麗にして構造的だったと感じるのだが・・・。
とはいえ、門外漢の私が言うのもなんだが、――クラシック音楽の歴史についての書籍に書かれているような意味での――ドイツ・クラシック音楽の方法観とフランスの音楽観との違い・コントラストとも似ている。とはいえ、この差異は相対的なものにすぎないと思う。
いずれにせよ、聞き手に音楽の美しさを伝えることで、全体としてのイメイジを伝えられなければ、何の意味もないのだから。構築性や体系性を美しく描けなければ、音楽芸術とはいえないし、華麗なばかりで組み立てや全体性、存在感を感じられなければ、印象や感動は希薄で、たちまち忘れられてしまう。
1次予選は、この2人の方法論の差を明確化するような、対照的な曲と演奏方法の競演となった。
千秋真一はハイドンのシンフォニーを非常にゆっくりとしたテンポで演奏するためには重厚性が必要で、本来、明朗で軽快な曲想を、奥行きのある構築性をもって表現した。
たぶん、かつてのニューヨーク・フィルのバーンスタインの演奏もかくや、と思わせるように。バーンスタインはたとえばヴァグナーの楽劇をすこぶるゆっくりしたテンポで演奏し、とてつもない構築性・体系性を表現したのではなかったか。
バーンスタインが示したことは、遅いくらいのテンポは、ほかに何をしなくてもそれだけで重厚性や奥行き、構築性・体系性をイメイジさせるということだ。だが、その間を持たせる――構築された空間性を直観させる――だけの響きと余韻を重層的に組み立てなければならないというものだったと私は理解している。
これに対してジャン・ドナデューは、ロッシーニのヴィルヘルム・テル序曲を、流麗かつ軽快に表現した。
よくもまあ、方法論の差を明快に表現する曲と演奏法を選び抜き、描いたものだ。
次の試技の「間違い探し」は門外漢なので、「ああ、そうですか。すごいですね」としか言いようがない。
で、2次予選では、真一とジャンは同一の曲で、オーケストラ・リハーサル(練習)と本番指揮に挑む。曲は、R.シュトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」。
ティル・オイゲンシュピーゲルは、古くからドイツの民衆の間に人気のあった伝説上の「いたずら者(反権力者の小悪党)」の名前。人びと、ことに有力者たちをからかって逃げ回るが、最後に捕らえられて処刑されてしまう。
「オイレン」はドイツ語で「フクロウ(知恵の象徴」)、「シュピーゲル」は「鏡」ないし「世相を映す水面鏡」を意味する。そしてシュピーゲルは、年代記作者の視線や知恵、批判精神を暗喩する語でもある。ドイツ史学左派の解釈では、「オイレン・シュピーゲル」の物語は悪漢物語だが、猥雑さが入り混じった農民や下層民衆のエネルギーとか権力者に対する抵抗、身分秩序への批判精神を躍動的に表すものとされている。