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この段階の予選対決で、千秋真一は自分の方法論を、大局的なジャン・ドナデューの方法論との対比・対置のなかでとらえ直すことになる。これは、自分の方法論の構築にだけ意識が向かっていた段階からのステップアップでもあるが、対立関係を意識するあまり、自分の本来の方法論の目的を見失いかける局面でもある。
ヘーゲル風に言えば、《 an sich 》な段階から《 für sich 》な段階への飛躍であって、方法論の相互関係、相互影響のなかで自分の方法論の本質を考える局面である。
つまり、対極的な方法論に影響されて、自分の方法論の「あるべきあり方」について省察(反省)と揺動が生じるわけだ。自分だけの目的だけを見ていた段階から、別の方法論にも視野を広げて、それらと自分とを対比するわけだ。その結果、場合によっては、自分の方法論を提示しようとして、極端にまで奔ってしまうことになる。
これは、より高い視点、より広い視野から自分の方法論を掘り下げ、彫琢し直すために必要な成長段階である。
ヘーゲルの論理学では、2つの異なる方法やテーマの対比と衝突。相互作用の論台は「本質論」として語られている。そして、この方法論は、ソナタや交響曲の「展開部」――対蹠的な2つのテーマを提示する「提示部」を受けて、2つのテーマの葛藤や相互作用・変容を描く部分や楽章――となっている。
このように、物語はソナタまたは交響曲の構成に倣って展開する。すばらしい!
さて真一は、自分の番(午後)が来るまで、自分だけの世界で検討を続けようと考えていたが、片平がジャンのオケリハと本番指揮(午前)を見ようとしていたことから、いっしょにジャンのパフォーマンスを見にいくことになった。そこで、ジャンの音楽観=方法論に強い衝撃を受ける。自分の対極にあるものを見たからだが、それへの対抗意識が過剰になってしまう。
輝くほどの流麗さ!
だが、メッセイジ性(構築性)にはやや弱い点があることも見抜いた。美しく組み立てられてはいるが、その全体的編成の中核になるものを明確には見せないままに終わる。
で、いよいよ自分の番が回ってきた。
彼は、自分のテーマの構築性を示そうと躍起になる。コアになるテーマを中軸にきっちりと組み立てを提示しようとする。
そのあまり、ウィルトール・オーケストラ自身が本来持っている個性=独自性を生かすことよりも、自分の思い通りに、彼らを道具として使いこなそうとして焦る。だから、このオーケストラが用意していたコンセプトを無視して、各パート(楽器)の演奏の型を押し付けようとする。
もちろん、指揮者が自分のイメイジどおりの音楽的世界を構築しようともがくことは、必要なことである。安易に妥協して、「きれいにまとめる」よりも、「俺はこういうテーマを表現したいんだ!」と模索することが。
とはいえ、指揮者は眼前に与えられた素材・材料を使いこなして料理しなければならない。材料の持っている本来の味や資質を殺してはならない。
というわけで、千秋真一は、オケのパフォーマンスを自分の型に強引に流し込もうとして、メンバーと対立してしまう。その結果、その場では指揮者――調和や統一をはかる者――としての権威を失ってしまった。
だが、対決したことによって、千秋の方法論の輪郭は明確になった。あいまいにお茶を濁して、きれいにまとめることによっては得られなかった、(オケと指揮者との)互いの方法論・技量・コンセプトが明確になった。
それぞれに独自の個性をもった者どうしが協演・協力するためには、相違や対立点を明確にし合うことは、必要なことである。「何となく仲良く」よりも、「あいつは、こういう立場なんだ」と互いに了解できる。
オケとのコミュニケイションが不具合になったことで、真一は動揺し、指揮を間違えてしまった。千秋はその場で率直にミスを認めて、やり直した。が、オケと指揮者との調和は壊れたままで、互いに気まずいままで終わってしまった。