目  次

1 身近な市場から世界市場まで

@ 「いちば」と「しじょう」

A 小さな局地市場と巨大な市場

巨大な市場の仕組み=権力構造

地方市場と世界市場

B 世界貿易の起源について…

中世ヨーロッパ 都市の形成

2 都市の成長と世界市場

商人の都市定住と都市団体…

@ 商業資本と都市の権力

A 領主制支配と所領経営

所領経営と遠距離貿易

所領経営の実態

A 直営地経営の膨張と衰退

所領経営は「封建制」か?

3 中世の都市と農村の生活

分散型村落の場合

北西ヨーロッパの分散型農村

地中海地方の農村

中世…資本家的生産の成長

4 中世ヨーロッパの統治レジーム

@「封建制」は法観念

古代帝国の崩壊から中世王国へ

A 中世「王国」の実態

C 大王国の分解と領主制

5 都市の権力ネットワークの特異性

市場と資本主義を考える

■1■ 身近な市場いちばから世界市場まで

  新聞やテレヴィ、雑誌などのメディアにあふれている「市場」という用語。誰もが自明なもの(わかりきった当たり前のもの)として扱っています。だが、これほど意味や用法が多様で曖昧な用語もないでしょう。「資本主義」のもとでは、弱肉強食の論理がはたらくとき「市場」は無慈悲な権力システムの仕組みそのものであるかに見えます。そこで、この「市場」という用語が意味し体現している歴史的にして社会的な現象を省察してみましょう。

  いま、マスメディアでは「世界の金融市場」の混乱や危機についていろいろ語られています。たとえば、ギリシャの国家財政危機にともなうEUの金融危機について。あるいは、アメリカ合衆国のFRBが、これまでの景気停滞に対応して取っていた「金融緩和政策」をまもなくやめて、公定金利を上げるのではないか、そうすると世界の投資家たちは有利な金利を求めて、ブラジルやインドなどの新興諸国から資金を引き上げて合衆国に回すようになるのではないか。そうなると、新興諸国では金融逼迫や資金不足による不況が起きるのではないか、とか。
  また数年前には「原油先物市場」に世界中の投機資金や行き場を失った余剰資金が集中して、取引価格を目まぐるしく引き上げていたのに、最近では原油の需要縮小と供給過剰を見込んで原油先物価格が低落し、今ふたたび上昇傾向に転じた状況が報告されています。

  そして、私たちは、スーパーマーケットなどで商品の値段や品質(内容)などと自分の懐具合とを引き合わせて、買うか買わないか、あるいは何を買うかを検討します。これも市場の仕組みの一端で、立派な商品取引です。
  商品取引きと市場関係は、いま、私たち現代人の生活や意識の全体に抜き差しならぬかかわりをもっています
  ここでは、この「市場」の意味と仕組みを社会史的に考えてみます。

@ 「いちば」と「しじょう」

  同じ「市場」という言葉でも、読み方が「いちば」と「しじょう」とでは意味合い上の響きがまるきり違います。
  「いちば」だと、村や町のちょっとした広場に近隣の人びとが自分で生産・加工したり、買い付けたりしたものを持ち寄って、お金を仲立ちにして売り買いしたり、あるいは物々交換したりする、そんな情景が思い浮かびます。
  野菜や果物、パンや花、織物や衣料品、あるいは雑貨などの物品を持ち寄って、あるいは、「蚤の市」のように、猥雑雑多なものがやり取りされる、人間くさい群集の活動が思い浮かびます。とにかく、市場とは商品交換、物の売り買いの集積場所なのです。
  ところが、「しじょう」と読むと、かなり組織立って規模の大きな商品交換システムを思い浮かべます。築地の卸売市場とか、東京証券取引所、シカゴの農産物先物市場、国際原油市場とか。これは、巨大な資金や膨大な資源・財貨が取り引きされるメカニズムをイメイジさせる用語にも思えます。
  もちろん、以上は、あくまで私個人のイメイジ、勝手な想像にすぎませんが。

  まず身近な市場を考えてみましょう。
  とにかく市場では、自分では使用・消費しない物品を、相手もまあ妥当だと思う金額で販売するわけです。この物品は「商品」と呼ばれます。そして、売り手が買い手に引き渡す商品と、受け取る貨幣(通貨)とは、「等しい価値」「釣り合いのとれた価値」という関係にあるわけです。
  これを「等価交換 equivalent exchange 」と呼びます。言い換えれば、等しい、ないしは釣り合いのとれた交換価値のやり取りということです。
  とはいえ、「等価」であるといことと、交換の当事者たちが「平等 equal 」であるということとは、イコールではありません。そこには、力関係や駆け引き、需給関係などの状況あるいは背景、さらには支配=従属の関係さえもがはたらいています。買い手の側の切迫度とか逼迫度などという意識とか心理ももちろん作用します。

  ところで、町や村の広場で野菜や花を持ち寄って売りさばいているオバチャンたちと買い手とのあいだにはたらく「駆け引き」や「力関係」と、巨大な全国的規模(国民的規模)の、さらには国際的ないし世界的規模での市場とでは、そこにはたらく「駆け引き」や「力関係」の質と量はまるきり違います。
  国境を超えた権力構造のなかで、まるっきり不平等な、あるいは不公正な「等価交換」( unequal or unfair exchange )が強いられている現実を目にすることもしばしばです。
  たとえば、ニューヨークのウォール街の快適なオフィスではたらくイグゼクティヴの1時間当たりの給料は、フィリピンやブラジルのバナナ農園やサトウキビ農園の(過酷な環境ではたらく)農民労働者の1年間の賃金や収入よりも、はるかに高いことも珍しくありません。それぞれが生み出すサーヴィスや商品(つまり生産物)の交換価値が、決定的に違うというわけです。

  同じ人間なのに。いったい、いかなる仕組みが、このような格差を制度化し固定化するのでしょうか。
  同じ商品交換なのに、それぞれの「場」によって、その質もはたらき方(作用メカニズム)がこんなに違って見える。そしてそんな現実を私たちは受け入れざるをえない。それは、なぜ、いかにしてなのでしょうか。

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