目  次

1 身近な市場から世界市場まで

@ 「いちば」と「しじょう」

A 小さな局地市場と巨大な市場

巨大な市場の仕組み=権力構造

地方市場と世界市場

B 世界貿易の起源について…

中世ヨーロッパ 都市の形成

2 都市の成長と世界市場

商人の都市定住と都市団体…

@ 商業資本と都市の権力

A 領主制支配と所領経営

所領経営と遠距離貿易

所領経営の実態

A 直営地経営の膨張と衰退

所領経営は「封建制」か?

3 中世の都市と農村の生活

分散型村落の場合

北西ヨーロッパの分散型農村

地中海地方の農村

中世…資本家的生産の成長

4 中世ヨーロッパの統治レジーム

@「封建制」は法観念

古代帝国の崩壊から中世王国へ

A 中世「王国」の実態

C 大王国の分解と領主制

5 都市の権力ネットワークの特異性

B 中世「王国」の実態

  ところが、当時の「王国」や「帝国」は、〈領土的なまとまり〉を少しも意味するものではありません。王国とは、統治諸身分(有力諸階級)のメンバーあいだの人的な結合、パーソナルな恩顧=臣従の関係でしかありません。フランク王に臣従するのは、各地方の豪族、侯国の長であって、彼らが統治する地理的空間とその住民集団が臣従するのではありません。
  この恩顧=臣従関係とは、各地方の支配者や団体の固有の権力と法の自立性をそのまま認め、それと引き換えに年間一定日数の軍役奉仕の義務とか税(貢納)の上納を課すというものでした。したがって、王の行動や決定が、地方の支配者・団体の利益に反したり、自立性を阻害するものとなった場合には、いつでも臣従を拒否=解除し、反乱に訴えてもよい、という関係でした。
  つまりは、臣従はきわめて形式的・名目的なものでしかありません。しかし、臣従誓約の当事者の意識や行動を誓約する共同主観としては機能していました。けれども、十分に力を持つ者であれば、いつでも踏み破ることができる規範観念にすぎませんでした。

  フランクの王は直轄領地やその周囲を実効的に支配するのがやっとで、遠方の統治には手下回りませんし、権威(統治情報)を伝達する手段もありませんでした。   そこで、宮廷は、ライン河から西の地域だけでも、およそ400近くの名目上の「管区=伯領」に分割して、そこに王の代官(名代)としての伯(伯爵)を任命・派遣しました。任命・派遣とはいっても、その地区の豪族・有力者を伯に取り立てただけというのが実態でした。
  もとより、軍事的な要衝には、王の直属(近親部族)の家臣や王族メンバーを任命・派遣しましたが、数は限られています。
  伯領は、いくつかの部族連合侯国を束ねる規模でした。これに数倍するような連合侯国を治める豪族には、公(公爵)の身分を認めました。まあ、地方王国の王とでもいえるでしょう。伯には、この公の影響力を牽制する役割が期待されていました。そして、伯領も公領も内部に分立要因を抱えていたということです。

  こうして、大フランク王国は、そもそものはじめから、少なくとも400ないし600くらいの自立的な政治的・軍事的単位に分立していました。しかも、それらの個々の単位のなかですら、きわめてまとまり・統合性を欠落させた存在でした。
  中世の輸送・通信技術からすれば、また人口の希薄さからすれば、当然といえば当然の事情でした。というわけで、フランク王国はまもなく、ブルグンドとかロレーヌとかいういくつもの王国に分裂していきます。しかし、この王国すら名目だけの「砂上の楼閣」にすぎません。
  ゆえに、この広大なフランク王国はもとより、伯領、公領もほとんどは、各地で開拓や開墾が進展し、都市や村落が建設されていき、そられを実効的に支配する有力者が領主となっていくのにともなって、またたくまに解体していきます。統治の単位というか軍事的な単位は、ずっとずっと小さな地理的規模の局地的な政治体(領主支配圏)に分解していきます。
  ただし、それは、単なる観念でしかなかった政治体が、実効的な政治的・軍事的支配がおよぶ小さな範囲で確立され、再編成されていく過程でもありました。

C 大王国の分解と領主制

  各地で城砦を中心にして確固たる軍事力、政治的力量を身につけた領主層が出現し、それまで、名目上は伯とか公が保有しているものとされた権力や権限を簒奪していきます。城砦領主層の出現です。
  彼らは領地での政治的・軍事的秩序を固めると、やがて相互に競争し、闘争しながら、より強い領主が周囲の弱小領主を統合していきます。今度は、政治的・軍事的な単位が、より少数の、より大きな規模に成長していく過程です。
  13世紀頃、その領主圏=政治体の数たるや、今日のフランスとドイツを合わせた地域に大小合わせて、800から1000にもおよびました。それらは、政治的・軍事的に独立の単位をなしていました。
  各層の領主たちは、それまでの〈封建法観念〉を踏襲しながら、相互の依存関係を表現したり規制する仕組みを組み立てることになりました。

  封建法の観念とは、実効的な政治的・軍事的支配がきわめて小さな規模でしか組織できない状況で、より広域的な「平和秩序」を構築して、領主たちの軍事的・政治的な生存闘争をある程度抑制する規範意識とでも言えましょうか。
  法観念の上では、たとえば13世紀のフランスでは、フランク王の権威のもとに臣従しているはずでしたが、実際には、200〜300の政治体とか地方に分断されていて、その9割近くが王の権威からは独立・分立している地域でした。
  君侯として有力だったのは、ブルゴーニュ公やノルマンディ=アンジュー公で、多くの城砦領主=貴族たちも、フランク王よりも、この2人を貴族連合の盟主に担ぎ上げようとしていました。
  ドイツ地方は、さらにひどい分裂状態でした。300以上の領邦に分裂していて、貴族連合の盟主すらいませんでした。結局、有力な諸侯が相互の選挙制でドイツ王とローマ皇帝を推戴する仕組みができ上がりました。これがやがて神聖ローマ帝国レジームになっていきます。

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