目 次
では、中世ヨーロッパの政治的・軍事的な状況・仕組みはどうなっていたのでしょうか。つまりは、政治的・軍事的な支配身分=階級としての領主たちのあいだの関係はどのようなものだったのか、という問題です。
中世の統治レジームや統治階級=身分のあり方は、時期によってめまぐるしく変化していきます。学校の教科書が記述しているように、中世の政治・軍事構造は長期にわたって安定するなんていうような状態はありませんでした。中世社会は停滞的でも静態的でもなく、きわめて動的で変化の激しいものだったのです。なにしろ、ヨーロッパのほぼ全域を覆っていた自然林の大半が伐採開拓されて農村が形成され、生態系が構造転換してしまったくらいですから。
さて、ヨーロッパ各地の部族社会ないし部族連合社会のなかで騎乗の戦士階級(騎士)が優越して、確固とした支配的ないし統治階級=身分になるのは、8〜9世紀でした。マジャール諸族の侵入や掠奪に対抗するために、専門の戦士階級が形成され、鎖帷子や甲冑、騎乗用の鐙が発明開発されたという事情が背景にありました。
その後、13世紀までに、各地で城砦を拠点とする領主制支配の仕組みが完成し、領主たちのあいだの相互依存関係が「封建法」的関係において制度化され、表現されます。封建法的関係とは、上位の領主に対して下位の領主・騎士が臣従誓約をおこない軍役奉仕義務を負うのと引き換えに、上位の領主が下位の領主の土地支配を「授封」という形で保護承認する契約関係です。この契約はあくまでパースナルな意思関係であって、代襲ごとに結び直され、かつ利害が相反すればただちに解消されうるものでした。
そして、このような授封=臣従関係という法観念を原理として、新たに王国や公国というようなレジームが編成され直し、君侯たちは領域王権の形成をめざすようになります。生き残りに成功した領域王権は、国家を形成するようになります。それは、以前の中世的「王国」や「帝国」とは、決定的に内容・構造が異なるものでした。
ただし、相変わらず、支配階級の観念や意識・行動スタイルは中世的な「封建法観念」によって拘束され、表現されていました。そこに混乱が生じる原因があるのです。
とにかく、このような法観念は統治諸階級・諸身分のあいだの依存関係にまとわりついてはいましたが、それが経済的再生産を規制していたわけではありません。経済構造としての「封建的」生産様式というものの存在――まして社会総体を支配する要因としては――は確認できません。
その間の歴史を素朴な視点から再構成してみましょう。
中世の古典的な「王国」レジームが形成され始めるのは、5世紀の終わりごろからでした。民族大移動の1つの局面がひとわたり終わって、次の大移動まで少し間がある頃でした。
各地に定住した諸部族が森林伐採による農地開墾や集落の建設を進めたのち、集落群のいくつかが連合して部族連合(小侯国)らしきものを形成していきます。
とはいえ、その時代、ヨーロッパのほとんどは自然林でごく一部が草原や荒蕪地で覆われていました。原生林の大海のなかに人類が居住する、離ればなれの分散的な集落やその集合が点在しています。ヨーロッパ全体での平均人口密度(1平方キロメートルあたりの人口分布)は、せいぜい数人に達すればましな方だったでしょう。
したがって、侯国とはいっても、総人口が1000に達するかどうか(イタリアを除く)。なかには数万に達するところも例外的にあったかもしれません。
村の集まりという程度の侯国ですから、その数はヨーロッパ全体で数千に達ししたかもしれません。