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地中海地方では、多くのところでは二圃制農業が発達します。耕作可能な表土は薄く、有輪犂による深耕や施肥には適しませんでした。牧畜は移動式で、畜獣の糞尿を混ぜた堆肥づくりには向きませんでした。
そして、ローマ帝国期までさかのぼるような古くから発達した多くの都市があったので、オリーヴやブドウ(これらは主にオイルやワインなどの加工材料)、野菜――のちにはイスラム人から学んだオレンジやレモン――の栽培など、地中海特有の近郊農業も発達しました。そういうところでは、耕地は分散していたり、多数の農民によって細分化されて管理・耕作されていました。
都市の影響力が強かったので、領主制や「封建法」にもとづく統治レジームは発達しませんでした。したがって、そこでも、領主特権を上から村落と農民にかぶせる支配や土地経営はまず成り立ちません。とはいっても、身分秩序は貫かれていて、都市の有力者が商品経済を利用して農民や農村を支配する仕組みが発達しました。
ところで、イタリア北部のロンバルディーア平原とかエミーリャ地方、北部ロマーニャ地方などでは広大な農耕地が広がっていました。そこでは、すでに12世紀には都市の商人企業家とか地主領主たちが運河・用水路・灌漑設備を整備し、圃場整備、土地改良のために大規模な投資をおこない、耕作地を集積させて、賃金労働による農業を経営していました。集住型農村は早くからありましたが、「封建制」は出現しませんでした。
農耕地は早くから投資の対象であり、すでに商品化され、買い入れと売り渡しの対象となっていました。
つまり、資本家的農業経営・土地経営がその頃から出現・成長していたのです。
フランス中南部、ロワール河とローヌ河とに挟まれた地域の南部では、概して土地はやせていて主穀の生産性は低く、したがって、農村は分散型でした。そこでは、土地の経営形態は「分益小作制」で、ことに人口が希薄で土地の生産性の低いところでは「折半小作制」となっていました。
分益小作制とは、取り決めによって、収穫物の一部を小作農民が地主に小作料として引き渡す小作制度です。折半小作制とは、地主と小作人とが収穫物を折半分配する仕組みです。
このような仕組みが成立した地方では可耕表土は薄く、やはり深耕には向かない土地でした。農民人口も希薄ですから、馬が牽く有輪犂のように何人もの農民が協力して稼動させる農具は導入されません。そもそも、そういう高価な馬や農具に投資できるほどの収益性が見込めないのです。せいぜい農夫2人がかりで、前で牽きながら後ろで押す無輪犂か、1人用の小型犂を使う程度でした。
こういうところでも、やはり村落まるがかえで領主が支配をおよぼす仕組みは成り立ちません。
ライン河の中下流域でも、ブドウやホップ、ビール醸造用の大麦などの栽培が発達しました。これらは遠隔地市場向けの商品のための加工用作物で、季節ごとあるいは年間をつうじて多数の農民労働者を雇用する場合にも、早くから賃金労働に近い形態が発達しました。
こうして見てくると、ヨーロッパで原生林の開墾や農村建設が進んだ時期には、古典的歴史理論が「封建制」と定義した生産様式とか経済的再生産の構造は支配的な地位を占めていたわけではなさそうです。
大規模な領主直営地は、君侯領主層のあいだの政治的・軍事的権力関係が大規模直営地の成立を可能にするような地政学的条件を前提としていたのです。しかも、遠距離商業の発達を前提条件として成立・発達した経営様式で、領主たちの家産経営は貿易商人の権力に依存・従属していました。
それは穀物栽培の生産性を高めましたが、それゆえにこそ、供給過剰になり14世紀には衰退していきました。こういう所領の土地の多くは低額の貸地となり、やはり遠方の市場をめざす借地農経営者に貸し出されました。借地農は、賃金制をつうじて農民を雇って、利潤獲得をめざす企業経営としての農業を営みました。原料羊毛生産向けの牧羊地に転用される場合もありました。
イングランドや北フランスでは、最も有力な農業セクターにおいて14世紀に地主層あるいは借地農による資本家的農業経営が成長していきました。
すでに見たように、イタリアではさらに2世紀も早くから、資本家的農業が活発に営まれ始めました。
もちろん、政治的権力や軍事力の大部分は領主身分が保有していました。しかし、政治的・軍事的に支配していた領主層の所領経営は、都市の遠距離商人層によって首根っこを押さえられていたのです。