目  次

1 身近な市場から世界市場まで

@ 「いちば」と「しじょう」

A 小さな局地市場と巨大な市場

巨大な市場の仕組み=権力構造

地方市場と世界市場

B 世界貿易の起源について…

中世ヨーロッパ 都市の形成

2 都市の成長と世界市場

商人の都市定住と都市団体…

@ 商業資本と都市の権力

A 領主制支配と所領経営

所領経営と遠距離貿易

所領経営の実態

A 直営地経営の膨張と衰退

所領経営は「封建制」か?

3 中世の都市と農村の生活

分散型村落の場合

北西ヨーロッパの分散型農村

地中海地方の農村

中世…資本家的生産の成長

4 中世ヨーロッパの統治レジーム

@「封建制」は法観念

古代帝国の崩壊から中世王国へ

A 中世「王国」の実態

C 大王国の分解と領主制

5 都市の権力ネットワークの特異性

■所領経営の実態■

  と、このように書くと、いくつもの村落とその周囲の農耕地がひとまとまりに領主(大貴族や大修道院)の直営地に囲い込まれたかのように聞こえますが、そんな状況ばかりではありません。何しろ、何もかも分散的な中世のことのなのです。

  ここで念頭に置いているような集住型農村集落の周囲に広がる農耕地は、いくつもの細長い帯状の区画(地条と呼ばれる)に分かれていました。圃場はだいたい3種類の輪作区画に区分されていました。まず今年耕作作付けしている圃場。次に休耕地。そして最後に牧草地ないし叢林のある草地。ただし、この3つ目の区画は、森林の伐採や開墾が大幅に進むと、しだいに減少し、やがてほとんどなくなっていきました(ことにフランス)。森林そのものが小さな叢林となって、農村や畑作地から遠いところにしか残っていなくなってしまったのです。
  ところが、森林に隣接した草原・草地は、そこに畜獣(家畜)を放牧してその排泄物を大地に還して地味や非沃度を回復させたり、あるいは枯れ草や腐葉土を耕作地や休耕地に移植して肥沃度を回復させるはたらきを担っていました。だから、叢林や牧草地の減少は、長期的には農地の生産性を低下させる傾向をもたらしたのです。
  とにかく、圃場は多数の帯状地に分割され、それぞれを保有・耕作する家族によって管理されていました。それぞれの圃場区画は、基本的に1つの家族やその親族が耕作管理していました。

  ところが北西ヨーロッパの一部では、13世紀になると、領主たちは大量の商品穀物を生産するための直営農場を経営しようとして、その区画の一番いいところ、一番広いところ、あるいは最大の農場のすぐ近くにある圃場を農民たちから取り上げたり、自分の言うとおりに耕作栽培させたりするようになったのです。
  さもなくば、数家族が保有耕作していた圃場区画をひとまとめにして、全員を農作業の集団にして働かせるとか。あるいは、すでに広大な直営農場をもっている領主たちは、それまで1週間のうち1日ないし2日だけだった直営農場での賦役労働日を3日ないし5日に強制的に増加させようとしたのです。
  要するにより多くの農民たちを直営農場に縛りつけ、働かせる日数も増やして、とにかく商人に売り渡す穀物の量を増やそうとしたわけです。遠距離貿易が拡大したため、遠方の諸都市のための食糧を供給すれば、それだけ収入が増大するというわけです。結局、領主層も市場のメカニズムに踊らされ、支配されていたわけです。


  さて、農民集落や農民保有地、領主直営地も含めた所領・領地の広さですが、もちろん大貴族の所領は広大で、地平線のはるか向こうまで一続きになっていることもありました。何十もの村落がそのなかに包含されている場合もありました。広大な所領・領地なかには、湖沼や湿原、草原、森林がいくつもあることもありました。
  そういうところでは、直営農場の単位はとてつもなく巨大だったのです。とはいえ、圃場は輪作のために無数の帯状の区画に仕切られていました。何しろ、動力は人間とせいぜい農耕馬しかなかったのですから、そういう力で農耕・栽培管理がしやすい単位に仕切るしかないのです。
  なかでも圃場を大きな単位にまとめあげるように農地開拓を指導したのは、古代からの農耕や農法、栽培技術、農業土木について知識や技術をもっていた修道士を多く抱えていた大修道院でした。そこでは、組織的・系統的な集団耕作が可能だったのです。
  ただし、多くの修道院は、宗教的規律や良心などから、農民をあまり酷使したりはしなかったようです。むしろ技術や技能の習熟や改良などによって、能率や収穫量を高めようとしていたといわれています。そして、農民の労働時間をあげて直営地での農作業に縛りつけたわけでもありません。週6日のうち、直営地での賦役労働に1日ないし2日だったところを3日ないし4日にして、残りの労働日は保有地あるいは自営小作地での農作業に回すようにしていました。
  もちろん強欲な修道院長のもとでは、農民の酷使・搾取はひどかったでしょう。

  ところが、ゲルマン諸族の農民たちには、自立的に武装して結束し集落を防衛するという伝統がありましたから、あまりにひどい農民搾取をおこなうと反乱や逃散が起きて所領経営が行きづまることもありました。領主による直営地拡大(農民支配の強化)とはいっても、領主と農民との力関係によってさまざまな結果が生まれたようです。フランスとイングランドでは、13世紀から14世紀にかけて農民反乱が頻発しました。

  ところで、権力ピュラミッドは頂部に近いほど小さくなりますから、有力大貴族はむしろ少数で中小零細規模の領主や騎士の数の方が圧倒的に多かったのは言うまでもありません。有力君侯・領主の家臣となっている下級領主や騎士も数多くいました。大貴族は直轄領以外の領地を家臣などの中下級貴族や騎士たちに分封していました。
  そうなると、多くの村落では、農耕地のあれこれの区画は、それぞれ別の領主や貴族の所領に属している場合もありました。村落の農耕地のA区画がX領主の知行地で、B区画はY領主の知行地で・・・というように。何人もの領主の知行地が入り乱れて、モザイク模様(ジグソー)になっている場合も多かったのです。そういう場合、農村集落や農民たちにおよぶ領主の権力もまた、きわめて分散的になり、直営地経営はもちろん不可能で、農民家族のの自立的な農業経営を押しとどめることはできなかったでしょう。
  とはいえ、自営農や自由保有農民の経営はより直接的に市場の権力にさらされますから、生き残り競争はかなり厳しく、やがて借金を重ねて土地を手放し、農業での賃金労働者とか季節労働者となるか、あるいは生活の糧を求めて農村から出ていくしかないということも多かったようです。

  そして、こういう場合の方が、圧倒的に多かったのです。

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