目  次

1 身近な市場から世界市場まで

@ 「いちば」と「しじょう」

A 小さな局地市場と巨大な市場

巨大な市場の仕組み=権力構造

地方市場と世界市場

B 世界貿易の起源について…

中世ヨーロッパ 都市の形成

2 都市の成長と世界市場

商人の都市定住と都市団体…

@ 商業資本と都市の権力

A 領主制支配と所領経営

所領経営と遠距離貿易

所領経営の実態

A 直営地経営の膨張と衰退

所領経営は「封建制」か?

3 中世の都市と農村の生活

分散型村落の場合

北西ヨーロッパの分散型農村

地中海地方の農村

中世…資本家的生産の成長

4 中世ヨーロッパの統治レジーム

@「封建制」は法観念

古代帝国の崩壊から中世王国へ

A 中世「王国」の実態

C 大王国の分解と領主制

5 都市の権力ネットワークの特異性

A 領主制支配と所領経営

  中世の生産様式について、「封建制」として最も系統的な説明を提起したのは、マルクス派です。いわく、

  農村集落には農民たちの慣習やしきたりによる自立的な秩序が成り立っていた。その秩序のもとで、農民(いくつもの階層に分かれているが、平均像として)は土地を保有して耕作し、栽培した農産物を収穫する権利が認められていた。ところが、農村秩序の上には領主の支配がおよび、農村の軍事的防衛の任に当たりながら、農村の土地に対する上級所有権を掌握していた。彼らは、各種の裁判権をつうじて農民を統制・支配し、貢納を要求する権限を行使していた。貢納は、賦役労働や現物地代、貨幣地代などの形態などがあった。
  また彼らは、村落にパン焼き小屋や粉引き小屋(水車小屋)などを設置し、それらの使用を強制して農民たちから使用税を徴収した。
  つまり、農村秩序の上=外部から裁判権などの強制力を行使して、農民から貢納として剰余生産物ないし剰余労働を収奪したのだという。

  これが中世農村社会の「封建的生産様式」のあらましだということです。
  そして、マルクス派は、基本的な歴史的発展の流れとしては、農民からの経済的剰余の収取(剰余生産物の搾取)の形態は、賦役労働→現物地代→貨幣地代へと変化していったと見なします。これは、現物自然経済から商品貨幣経済への発展の流れに対応しているのだということで。
  そのさい、貨幣地代が普及するためには商品貨幣経済の浸透が前提となりますが、その内容については無関心でした。ミクロ社会としての所領の権力構造や階級関係については言及しても、総体としてのヨーロッパ社会の再生産体系については問わないということです。しかし私たちは、総体としての社会の再生産構造をを問題にしているのです。

  しかし、この定式は、1960年代に、ヨーロッパ中世社会の仕組みや生活についての実証史的な研究が進むにつれて、説得力を失っていきました。この定式がそれ自体として、内容として、誤っているという評価ではなくて、あまりに抽象的かつ一面的で、中世社会の再生産構造を十分説明するものとはいえないという批判でした。また、ヨーロッパの地方ごとに農村の規模や仕組み、農民と領主との関係、所領経営と商品貨幣経済との関係はきわめて多様であって、その内容に即した階級関係や再生産構造を解明する必要があるというわけです。
  そして上記の領主制支配の定式は、北西ヨーロッパの地域で、比較的人口密度が高い集住型の村落ができ上がり、三圃制農法が普及した諸地方の一部にだけ当てはまるものでしかなかったのです。
  また、経済的剰余の収取形態のありようや変化の順序もきわめてまちまちだったのです。しかも、この定式が当てはまるとされた、三圃制農法が普及した地域では、むしろ、領主直営農場での賦役労働は、遠距離貿易として商品貨幣経済が発達した局面になってから主要な形態になったのでした。
  マルクス派の進歩史観は、じつは近代を人類史発展の最高の段階と見る近代ブルジョワ的歴史観の焼き直しでしかないのですが、実証史の前に崩れてしまったのです。とはいえ、このマルクス派とは、ソヴィエト派マルクシズムを源流とするものなのだったのです。


  もっと、素朴で地に足を着けた見方から始めてみましょう。
  まず、人口密度がある程度高い集住村落が成立した諸地方で、三圃制農法が普及した諸地域の一部について。北フランスからラインラント、ザクセン、イングランド南東部などの一部諸地方を対象にしてみましょう。
  たしかに、領主身分(その家臣・従者)は、農民から経済的剰余を収取しました。だが、収取された剰余は、その後、どうなるのでしょうか。つまり、剰余の経済的な運動・循環はどうなっているのでしょうか。

  7世紀から10世紀ごろまでは、剰余は現物農産物(主穀作物)の形態をとっていました。領主とその家臣・従者たちは、領地や所領のあちらこちらを巡行して回って、各地で裁判集会や評議会を開催し、そのつどごとに「古き良き法」を確認し、権威を伝達して回りました。大きな所領だと、領主自身が全部は回りきれないので、家臣や従者たちを代官として遠征させて、裁判や評議会を開催しました。
  そのとき、農民から集めた農産物を贅沢に消費して回ったのです。また、祭事を催して農民たちにも食糧や酒を振る舞い、権威や「ありがたみ」を誇示することになっていました。それしか、剰余生産物の領有支配の方式はなかったのです。ただし、浪費しきれない穀物など、保存がきくものは、その一部を領主の一行が持ち歩くこともありました。残りは、城砦や兵站拠点の食糧庫に保管したようです。

  この当時、領主には地理的に固定した宮廷や行政府というものはなかったのです。領主は家臣団で随行できるメンバーを引き連れて、所領や支配地の各地、修道院とか聖堂とか家臣の領地・城砦などを順繰りに巡行して回りました。ゆえに、王位をもつ者でさえ、首都や首府といったものはなかったのです。というよりも、行財政組織がなかったので、王としての権威を王国域内に伝達・浸透させるためには、巡行遠征するしかなかったというべきでしょうか。
  東アジアのように、統治の地理的中心としての都邑を設置することは、ヨーロッパの中世にはなかったのです。王の宮廷は一定の期間ごとに、領地をあちらこちらと巡行・遠征して回っていたのです。王に随行する家臣団、その帷幕・取り巻き連、それがまさに宮廷なのです。
  ヨーロッパの言語で「キャンプ camp (野営陣)」とか「キャンペイン campaign 」「カンパニオン companion 」とかの言葉が、君侯の行軍だけでなく、「宮廷の陣容」とか「統治者集団」「王と家臣団」を意味するのは、こうした歴史の経過を内包しているからです。

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