目  次

1 身近な市場から世界市場まで

@ 「いちば」と「しじょう」

A 小さな局地市場と巨大な市場

巨大な市場の仕組み=権力構造

地方市場と世界市場

B 世界貿易の起源について…

中世ヨーロッパ 都市の形成

2 都市の成長と世界市場

商人の都市定住と都市団体…

@ 商業資本と都市の権力

A 領主制支配と所領経営

所領経営と遠距離貿易

所領経営の実態

A 直営地経営の膨張と衰退

所領経営は「封建制」か?

3 中世の都市と農村の生活

分散型村落の場合

北西ヨーロッパの分散型農村

地中海地方の農村

中世…資本家的生産の成長

4 中世ヨーロッパの統治レジーム

@「封建制」は法観念

古代帝国の崩壊から中世王国へ

A 中世「王国」の実態

C 大王国の分解と領主制

5 都市の権力ネットワークの特異性

B 世界貿易の起源についての人類史的アプローチ

  市場という事象の歴史を考察するためには、人類社会の歴史についての先入観を取り除く必要があります。
  まず定住村落の共同体があって、そこで農耕技術の発達とともに余剰生産物が生まれ、それが共同体相互のあいだで交換されるようになる――こういう歴史観を根底から見直さなければなりません。この見直しを、かなり巨視的な人類史的視点から試みてみます
  まず考えておきたいのは、人類という生物種の基本的な行動様式についてです。
  古代ギリシア人は、「人間はポリス的な動物ゾーン・ポリティコンだ」と言いました。ゾーン・ポリティコンの意味は、「集落を建設しして社会的組織を形成して生存する動物」というほどのものです。ですが私は、人類がゾーン・ポリティコンになるはるか以前から人類は《長距離移動する動物ゾーン・ナウティコン》として進化した、と言いたいのです。そこには、物財・財貨を長距離にわたって携行し、必要に応じて交換する習性を備えている、という含意があります。

  今から5〜6万年くらい前、ホモサピエンス・サピエンス(現人類)の直系の祖先にあたる生物が、アフリカ中東部から世界中の大陸や海洋に拡散していってと言われています。炎熱の地から極寒の地まで、そして水平線の彼方に何も見えない大洋に乗り出し、移動して定住を試みては、また長距離の移動を繰り返す・・・・人類は生物種としてそんな生存、生き残り行動を選択したようです。
  文明の存在が遺物・遺跡や痕跡に残るようになるのは、古くてもせいぜいおよそ1万年前以内の時代ですから、それまでおよそ数万年のあいだ、最後の氷河期が終わるまで、人類の祖先はとてつもなく長い距離を移動し続けたとみられます。

  古代には、高度な都市集落や住民共同体があるとき忽然と廃墟になったかのように放棄されることがありました。古代メソポタミアのシュメール、古代のインドのモヘンジョダロ。ひょっとしたら、人類は気候変動や耕地の荒廃、疫病、異民族の移動との遭遇などが原因で、別のところに集団的な移動を試みたのかもしれません。それが、ことさら奇異で無謀ではないという慣習や心性があったのではないでしょうか。
  オセアニアのマオリやアボリジニたちが、小さな船で太平洋の諸島に移住や植民を試みたのは、定住のリスクよりも水平線のかなたへの長距離移動の方がリスクが少ない――あるいは生存の可能性が大きい――と感じ考えていたからではないでしょうか。


  さて、古代ローマ帝国の末期には、ヨーロッパではゲルマン諸族の移動が顕著になりました。ゲルマンの移動は、その後背地(中央アジアから西アジア、ロシア平原)でのマジャール人やブルガル人の移動と連動しています。少なくとも中央アジア、黒海方面からイベリア半島までの数千キロメートルから6千キロメートルにわたる大移動があったのです。

  ヨーロッパの内陸部のほとんどが森林に覆われていた頃です。
  その移動は、ローマ帝国崩壊後、各地でゴート、フランク、ランゴバルド、アングルザクセンなどの諸部族の移動と開拓、農地開墾、農村建設として持続し、AD.10世紀近くまで波状的に継続します。
  その頃から、ヨーロッパ各地にひとたび定住した諸部族は森林を開拓して定住集落を建設します。けれども、多くの場合、集落の人口が100に達する前に、さらに森林の奥地にまで開墾を進め、そこに移住者を送り新たな集落を建設し、新たな耕作地を切り開きました。それは、14世紀の前半まで止むことなく続きます。
  ところが、おりしもその頃から、大規模で長期的な気候変動による寒冷化が進んでいったようです。ヨーロッパでは8世紀から気候温暖化が始まり、13世紀まで持続したと言われています。そして、今度は13世紀の後半ないし末から気候寒冷化のサイクルが現れ、19世紀はじめないし前半まで持続したのです。
  一方、北海沿岸部では古くは5世紀頃から始まったのですが、本格的には9世紀から12世紀まで、ブリテン島からブルターニュ、ノルマンディ、ネーデルラント、フリースラント、アングルザクセン、ユートラント、さらにスカンディナヴィアのあいだで、テュートン・ノルマン諸族の移動や植民活動、交易や征服活動が波状的に幾度も繰り返されます。
  おそらく温暖化で海水面が上昇し、上陸しやすい入り江が増加して、沿岸航海や上陸がしやすくなったことと、栽培や採集などによる食糧確保が容易になったことが背景にあったからでしょう。
  まさに農村共同体や都市集落は、大規模な気候変動を背景として、人びとの長距離の移動、波状的な開拓・定住と再移動、植民などの結果として形成されていきました。

  この人類人口の拡散増殖は、当面の生活必要物資を携行し、あるいは調達しながら、そして交換しながらの移動によるものでした。その意味では、人類は定住生活圏を築くかなり以前から、移動ないしは遍歴しながら、ときに応じて必要物資を採集、生産し、蓄え、運搬して交換するという行為を繰り返してきたはずです。
  通商や商業とまでは言えないほどの原始的な交換活動、長距離におよぶ初期交易の活動が、定住村落や都市集落の建設と並行し、あるいは先行したのです。中世ヨーロッパの文明や文化の基層には、そのような人類の行動スタイル・生活スタイルが横たわっていて、社会の危機状況や変革運動とともにときおり噴出してくるのです。

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