目  次

1 身近な市場から世界市場まで

@ 「いちば」と「しじょう」

A 小さな局地市場と巨大な市場

巨大な市場の仕組み=権力構造

地方市場と世界市場

B 世界貿易の起源について…

中世ヨーロッパ 都市の形成

2 都市の成長と世界市場

商人の都市定住と都市団体…

@ 商業資本と都市の権力

A 領主制支配と所領経営

所領経営と遠距離貿易

所領経営の実態

A 直営地経営の膨張と衰退

所領経営は「封建制」か?

3 中世の都市と農村の生活

分散型村落の場合

北西ヨーロッパの分散型農村

地中海地方の農村

中世…資本家的生産の成長

4 中世ヨーロッパの統治レジーム

@「封建制」は法観念

古代帝国の崩壊から中世王国へ

A 中世「王国」の実態

C 大王国の分解と領主制

5 都市の権力ネットワークの特異性

■遍歴商人と遠距離貿易■

  ヨーロッパの各地で多数の都市が出現するようになると、それらを結びつける交易ネットワークが出現し、成長するようになります。冒険をいとわない各地の商人たちが、出身地ごとに仲間団体を組織して、諸都市を遍歴して回るようになりました。あちこちで商品(特産物)を買い付け、買い回るとともに、売りさばくようになったのです。
  そうなると、より多くの商人が、より多種多様な商品やニーズ、情報を持ち寄って交換する方が、より多額で安定した売上利益が見込めるし、より大きな商機(ビズネスチャンス)をつかむことができます。商人たちは、それぞれの時期に特定の都市で市(いち)を開催するようになります。定期的、周期的な市が、各地の都市で開催されるようになります。
  市場の開設権はその当時、都市集落の領主たちが握っていたのですが、彼らも、定期市を開催する方が都市が成長しより多くの税収が見込めるので、定期市の開催を奨励し商人たちを優遇しました――通行税や関税の減免や免除など。
  そうなると、年間の予定が立ちますから、毎年、特定の場所での市をめざして遍歴、巡回の計画を立てて、仕入れ、買い付け、そして決済資金(貴金属)の備蓄をおこなうようになります。

  こうして、有力な都市、交易路の幹線沿いの都市、交易の結節地では、年ごと、季節ごとの大市おおいちが立つようになりました。
  13世紀はじめには、パリの東方のシャンパーニュ地方ではいくつもの近隣諸都市を季節ごと、月ごとに周期的に巡回するような大市が開かれるようになりました。というのは、この地方は、早くから商工業が発達した大都市がひしめく北イタリアから、北方の商工業の中心地フランデルン地方にいたる有力な交易路の要衝だったからです。
  ジェーノヴァやフィレンツェ、ミラーノなどからアルプスを西回りにジュネーヴやブザンソンを経てフランデルン(ブリュージュやガン、イープルなど)に到達する幹線交易路の終点近くに、シャンパーニュは位置します。ジェーノヴァからピエモンテ、マルセイユを経てローヌ河沿いにリヨンにいたり、そこからシャンパーニュにいたる道もありました。あるいは、トリノからサヴォイを経てリヨン、そしてシャンパーニュにいたる経路もありました。
  つまり、きわめて活発なイタリア商人たちと、少しおっとりしたフランデルン諸都市の商人たちが、ここで出会って、大がかりに交易をおこなうのです。ヨーロッパ商工業の南の極と北の極との出会いですから、じつに多様で豊かな商品交換が展開されます。それをめざして、バルセローナからも、ケルンからも、パリからも、ハンブルクからも、要するにヨーロッパ中から商人・団体が結集することになります。


  この頃から、ヨーロッパの遠隔地どうしが互いに交換相手の地での生産物、特産物がなければ、日常の生産活動や生活が成り立たないような関係、つまり単一の社会的分業体系への編合が進行していきます。経済的な物質代謝のネットワークが形成されていくわけです。
  たとえば、フランデルンの毛織物製造は、イングランド(ミッドランドやイーストアングリア)産の羊毛、あるいはカスティーリャの羊毛を供給してもらわないと、成り立たなくなりました。やがて、ミッドランドの羊毛を集めた地場商人がイーストアングリアで生地毛織物(素材となる織布生地)の製造を組織し、それをイタリア商人やハンザ商人が取りまとめてブリュージュやガンに送り、地場の卸商人に引き渡して、染色・縮絨・仕上げなどの――洗練された技術が必要な――専門工程に回し、高級な衣服や帽子を製造させる。それをヨーロッパの有力諸都市の上流身分に売りさばくという仕組みが成立しました。
  素材となる織布の生産に比べて、仕上げ工程は何倍もの付加価値生産性があるものと評価されていました。イーストアングリアの織布手工業は、社会的分業体系のなかで従属的で低い地位を割り当てられていたのです。原料羊毛の生産はさらに低い地位にありました。
  北イタリア諸都市の住民は、食糧としての穀物の多くを、はるか遠く黒海の北西部での農業地帯での小麦栽培に依存していました。
  また、ネーデルラントや北フランスの造船業は、バルト海地方の木材やタール、ピッチを輸入しなければ、原材料の確保ができませんでした。
  もとより、こうした諸都市の住民の食糧の多くもまた、遠方の地での農業に依存していました。そして、ラインラントの金属製品やガラス製品は、パリやリヨン、リューベクやロンドンなどの遠隔地市場がなければ、収入を得られず、つまりは再生産ができないということになりました。

  「なければないで済ませられる」というのではなく、それぞれの生産過程や消費に不可欠の、互いに内的な経済的連関のなかにヨーロッパの遠隔地が組み込まれたわけです。
  言い方を換えれば、たとえば、毛織物製品という1つの商品の生産過程が、商業資本の支配のもとで、ブリテンのミッドランドでの原料生産、イーストアングリアでの布地織り、フランデルンでの染色・縮絨・仕上げなどという諸段階に分割され、関連付けられていたわけです。生産過程の諸段階は、離れ離れの諸地方に配置されて育成されました。

  こうして、遠距離貿易ないし世界貿易(商品流通)は、生産過程の外的要因ではなく、むしろ生産過程の運動に内在的な要因、内的に不可分の要素=条件だったのです。
  商人たちは、職人たちが製造をおこなう工房を所有・管理し、原材料を提供し、品質や製造技術や生産方法、数量、納期などを厳格に指示統制しました。そして、羊毛梳きや切り揃え、脱脂、織布、裁断、染色、縮絨などの各工程が終わるごとに生産物を自ら引き取りに出向き、品質や量目、工法などを事細かに厳格に検査しました。
  次の工程には自ら出向いて、前工程の生産物をこれから加工すべき材料として引き渡し、生産上の指示と命令を伝達したのです。販売に向けた搬出までの製品や、次工程に引き渡すまで材料や半製品を商人仲間で共同運営する商館や倉庫に保管しました。
  完成品を市場に向けて送り出すのも、つまりは販売代金の回収もまた、もちろん商人たちが自らおこないました。どんな品質・分量の原材料をどこから調達し、何をどこに売れば利益が上がるかという情報も、すべからく商人仲間が独占していました。
  つまりは、工房の職人や手工業者たちなど生産過程の直接の担い手には、商人の支配から逃れるいかなる自由もありませんでした。彼らが加工する材料は、すべて商人の所有物でした。つまり、生産過程の組織者・指揮者は商人であって、彼らは生産と再生産のあらゆる条件を支配していたのです。

  ところで、遍歴商人仲間は、かなりの量と価格の財貨(商品や貴金属貨幣)をともなって遠距離を旅行するわけですから、安全のために、強く結束し、また護衛のために雇った武装した兵員や騎士を引き連れていました。商品を積んで海洋や河川を航行する船舶も武装していました。陸上の移動でも、海上や河川上の移動でも、商業活動は軍事力をともなう活動でした。
  つまり、商人たちは、かなり早くから、武力の担い手(軍事力)を雇い組織し統率するための意識や判断力、行動スタイルを身につけていたのです。

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