それからまもなく、ある真夜中、ポーランドの貨物船に潜んでいたレーヴィン博士がイングランドの港に上陸した。安全保障局が護衛して、アイアランドのダブリンまで送り届けた。
ところが、レーヴィン亡命の情報はKGBに筒抜けだった。ブリテン政府組織にも「KGBの長い腕」がおよんでいるのだ。レーヴィンがダブリンに到着し、IRAが迎えに来る日程と道筋の情報さえ、把握されていた。
レーヴィンを迎えに来るボディガードもろともに殺害せよ、という命令がダブリンのコヒーリンに伝えられた。
その日、レーヴィンはIRAが派遣したボディガードとともに空港から車に乗った。その車が荒漠とした草原を貫く道を走っていたとき、後ろからバイクに乗った警察官が近づいてきた。バイクは車に並び追い抜いた。前に回った警察官は、車に止まるよう指示を出した。
制限速度を守って慎重に運転していたボディガードは、訝しがりながら車を降りて、フロント側に回った。すると、警察官はいきなり銃を取り出して、ボディガードの頭部を撃ち抜いた。そして、後部座席のレーヴィンをも射殺した。
というわけで、KGBに先手を打たれた安全保障局とIRAは、コヒーリンの正体を解明する手立てを奪われてしまった。
おりしもそのとき、KGBのチェルヌィー教授が、アイアランドのダブリン大学から客員教授として招聘された。ロシア文学の講座を担当するために。この大学人事もまた、KGBの長い腕を使ってダブリン大学の有力教授陣に影響力を行使した結果だった。
こうして、KGBは、チェルヌィーをダブリンに配置して、コヒーリンのすぐ近くで情報・命令の伝達や作戦の指揮・統制をおこなう経路を確保した。
ところで、ウクライナのドゥルーモアで父親をコヒーリンによって殺された少女ターニャ(タチァーナ)はその後、西ヨーロッパでの諜報・破壊工作の作戦指揮者、KGBのマスロフスキー少将の養女となった。
ソ連社会のノーメンクラトゥーラ・エリートの娘となったターニャは、音楽の才能を見出されて、ピアニストとして英才教育を受けることができた。
そして、1990年にはロシアを代表する優秀な若手ピアニストとなっていた。
おりしも、レーヴィンが亡命したのち暗殺された、そのとき、彼女は西ヨーロッパでの公演旅行の途次にあった。
ターニャについての情報は、今、ブリテン政府・軍の情報部によって詳細に把握されていた。情報の大部分は、殺されたレーヴィンから提供された情報によって裏づけられていた。
安全保障局のファーガスン准将は、コヒーリンあぶり出しのための次の一手を案出した。今、西ヨーロッパにいるターニャに接近して、「ドゥルーモアの惨劇」に関する情報を入手してコヒーリンの容貌を確認するという作戦だ。
だが、彼女はKGB最高首脳の養女である。
養父のマスロフスキーがターニャを卓越したピアニストへと育て上げたのは、単に彼女への憐憫や愛情からだけでなかった。音楽活動のために西ヨーロッパ各地を自由に堂々と動き回れる養女の周囲に、プロモウターやマニジャー、音楽技術者、共演者などとして数多くのKGB要員を配置して、西側での諜報活動を組織的に展開することが可能になる、という目論見があったのだ。
したがって、西側の情報組織がまともにターニャに接近できる可能性は皆無に近かった。では、どうするか。
ファーガスンが考え出した作戦は、彼女をブリテンに亡命させるというものだった。そのための手駒は、リーアム・デヴリンだ。なにしろ、リーアムはつい先ごろまでブリテン情報部の敵だったし、それゆえ、ソ連側には顔を知られていない。しかも、知的でハンサムなリーアムは、若い女性に近づき説得する役回りとしては、最適だった。