一方、安全保障局はターニャから「ドゥルーモアの惨劇」をめぐる情報を引き出して、コヒーリンの正体を暴こうとしたが、ターニャはそのときの記憶をすっかり失っていた。
ターニャの脳は、精神の平衡を保つために、あの恐ろしい事件記憶を封じ込めてしまったのだ。
精神医学では、思い出すと心理的な衝撃(苦痛・苦悩)があまりに大きな記憶について、日々の生活での精神状態の平衡を保つために、それを回想するメモリー回路を遮断してしまうことがある、と指摘している。一種の記憶障害の形態だが、脳がこれによってPTSDの無意識的な回避をおこなうための自然な機能だという。
だが、PTSDを効果的に除去するためには、この封じ込められた記憶を一度復元して、その衝撃・障害を克服する心理的治療が必要になるという。ただし、苦痛や苦悩に満ちた記憶が甦ったときに、ものすごく大きな衝撃や不安が生じるので、専門家のケアを必要とする。
ファーガスン准将は、封じ込められた記憶を復元するために、ターニャを本物(北アイアランド)のドゥルーモアに連れていって、ドゥルーモアの街の光景を目の当たりにしてもらおうと考えた。そこで、ターニャを保護しているリーアム・デヴリンのところにフォックスを派遣して、説得にあたらせた。
だが、その場合のターニャのショック=悲惨を考えると、リーアムとしてはその提案に応じるわけにはいかなかった。彼はフォックスの提案を拒否した。
そこで、ファーガスンは自分自身でターニャを説得することにした。准将は、ターニャとデヴリンを北海に臨む海岸に呼び出した。アイアランド特有の、波浪によって浸食された溶岩塊が散在する、美しいが荒涼とした海辺に。
ファーガスンは、コヒーリンをこのまま野放しにする危険を説明し、ターニャから同意を取り付けた。
一行は、ドゥルーモアを訪れた。そこには、20年近く前の、あの惨劇が起きたのとそっくり同じ街並みがあった。
広場に立ったターニャは周囲の街並みを見回した。すると、あのときの様子が瞬間に甦ってきた――あの黒づくめの服装の青年、ドゥルーモア教会の前で集会=示威行動をしていた人びと、青年を捕らえにやって来た警官隊、そして銃撃、射殺される警官たち…。
この広場で倒れる人びとの姿、飛び散る血、ターニャの父親の死。あまりの衝撃にターニャは意識を失いかけた。うずくまった彼女をリーアムが助け起こした。
ターニャが受けた衝撃はファーガスンの予想以上にひどかった。
「今すぐダブリンの住居に帰りたい」とターニャは訴えた。
けれども、「ファーガスン准将に伝えてください。私はコヒーリンの顔を思い出したと」と言い添えた。そこで、ターニャの状態が落ち着いてから、疑わしい人物たちの顔写真を見てもらうことにした。
さて、リーアムとターニャは親密な恋人どうしになっていた。
ある朝、住居の目の前にある聖パトリック教会で堅信礼と聖体拝領のためのミサが開催されることになっていた。衝撃の痛手から回復しかけたターニャは、そのミサが見たいと言い出した。そこで、リーアムはターニャ手とを取り合って教会の礼拝堂を訪れた。
礼拝堂では、背景にグレゴリオ聖歌が流れるなかで司祭の宣誓とプリーチがおこなわれていた。ターニャは、ローマカトリックの儀式を興味深そうに見つめていた。
そのとき、正面の祭壇の奥に掲げられた聖母マリア像に向かっての堅信の宣誓が終わり、司祭が会衆に方に振り向いた。司祭はトーマス・ケリー神父だった。その顔を見たターニャの表情が凍りついた。そして、思わず彼女は立ち上がった。
トーマス神父もまた、立ちすくむターニャを見た。瞬間、神父の顔の表情も凍りついた。
ターニャは隣のリーアムに言った。
「あの司祭、彼がコヒーリンよ。間違いないわ」
「ばかな、彼はぼくの親友のトムだ。何年も前からの知り合いだ」驚くリーアム。
「いいえ、彼こそコヒーリンよ。ああ、彼は私を殺しに来るんだわ」
言い捨てると、ターニャは逃げるように、聖堂から飛び出していった。追いかけるリーアム。