父の死後、彼女の人生に立ち入ってきた人物がもう1人いた。
大学の数学科の助手ハロルド・ドッブズで、年齢は30歳前後か。
彼は、シカゴ大学の大学院時代にロバートの指導を受けていた。キャサリンの父親は以前、ハロルドの指導教授をしていて、彼が修士号・博士号をとるための研究を支援していたのだ。ハロルドは成績が優秀なので、課程修了後、数学科の助手に採用された。
ハロルドは、ロバートを深く尊敬していた。その恩師が死去したと知って、ロバートの「研究上の遺品」を探しにこの家に6年ぶりにやって来たのだ。
それというのも、おそらく研究上の悩みを解決するヒントを探しに来たのかもしれない。
ハロルドは、今、壁にぶつかっている。
彼は、人並み以上の秀才ではあるが、飛び抜けた天才ではない。それで今、競争の厳しい数学アカデミズムのなかで今後、どのような課題に取り組むべきか悩んでいるようだ。そこで、ロバートが残した覚書やメモのなかに、この壁を突破するためのヒントや材料がないか、探しに来たようだ。
また、恩師ロバートの業績を集約・総括してみようと思ってもいたことでもあった。
優れた研究者の生涯の足跡や業績を整理し、学説史上の位置づけを与えるのは、方法論の検討では不可欠の作業なのだ。若き日のロバートが当時の数学界の状況をどのように見ていて、どういう課題に挑戦すべきか検討し、その課題にどのようなアプローチ方法を選択し、どのような達成にいたったのか――偉大な研究者の足跡は、その時代の学術のありようを集中的・端的に表す標識となる。
理論史研究は、幾多の方法論を比較検討し集約・総括するための訓練場となる。そういう作業によって、これまでの数学界の成果・到達点の上に自分は何を付け加えることができるかが見えてくるものなのだ。
だが、ロバートの自宅を訪ねるのは6年ぶりで、キャサリンの信頼を得るのは容易ではなかった。キャサリンは、はじめのうち、ハロルドがこっそりロバートの研究の遺品を持ち出す(盗み出す)のではないかと疑っていた。というのも、数学者の世界での業績競争や生き残り競争は熾烈だから。
じつは、キャサリンは6、7年前にハロルドに何度か会っている。
キャサリンがロバートの研究室を訪ねてきたときで、山のような研究資料や書籍を抱え込んだハロルドが彼女と出会いがしらにぶつかってしまったのだ。
その後もハロルドは、父の研究室を訪ねてきたキャサリンと会っている。
知的で端麗なキャサリンにハロルドは強く惹かれたが、何しろ深く尊敬する指導教授の娘であってみれば、気後れしてしまって、交際を申し込むのをためらったまま時が過ぎた。
キャサリンは内向的で関心は主に数学に向いていて、異性には向いていなかった。そのために、このとき再会するまでハロルドのことをすかkり忘れていたようだ。最近までは、彼女の関心は、もっぱら精神を患い意識が混濁した父親に向けられていたのだ。