今回は《家族》というテーマに焦点を当ててみよう。取り上げる作品は『ディープ・エンド・オブ・オーシャン(1999年)』。
家族というものは、その構成員が一緒に暮らすことで絆をつくり上げていく。ところが、この映画の物語が描くのは、深刻な状況設定だ。
ある2歳の幼児――2人兄弟の次男――が誘拐されて家族から引き離されてしまい、別の家族に引き取られ、新たな名前をつけられて長い期間育てられることになった。そして10年後に家族と再会し、元の家族に戻されることになった。
10歳のその少年には、10年間ともに暮らして自らの成長環境となった家族がいる。だから、家族としての絆は、そちらの方が強い。絆というものは、ともに暮らした期間の経験の蓄積すわなち記憶によって形成されるものだ。そして、その家族関係と記憶こそが少年の人格やアイデンティティの形成・陶冶に第一義的に関与してきたはずだ。
誘拐された幼児にとっては、元の家族と生活した年月がずっと短いし、記憶にもあまり残ってはいないだろう。
元の家族に戻されても、違和感ばかりで「家族」という実感はないだろう。しかも元の名前に戻されたので、アイデンティティの土台が大きく揺らいでいる。だが、10歳の少年なので、――強い違和感や孤立感を感じながらも――元の家族の一員としての役割を演じることはできる。
では元の家族のメンバーにとっては、10年後に戻ってきた次男にどう接すればいいのだろうか。こちらの側でも、やはり10年間も一緒にいなかったという違和感は抱かざるを得ない。だが、家族の絆を回復するために必要であろう役割を演じ、家族関係を構築し直すしかない。
さらに、10歳になるまで男の子を育てた家族が残されている。とりわけ、自分の子として育ててきた親にとっては、子を失うわけだから深い悲しみにとらわれるだろう。
というように考えるだに深刻な事情だ。一方では、失われた家族の絆の回復なのだが、他方では、それまでの家族関係の解消ということになる。だからこそドラマになるのだろう。
原題は The Deep End of the Ocean 。「底深い海の果て」という意味だ。
原作は Jacquelyn Mitchard, The Deep End of Ocean, 1996 ――ジャクリン・ミチャード著『深い海の果て』、1996年刊。
原作では、元の家族の兄弟の下に乳飲み子の女の子がいる。そして、次男の誘拐後、母親は喪失感に打ちひしがれて、感情を表さずに機械的に子育てするようになってしまう。役割だけを演じることで、悲しみから逃げているのだろう。
そして家族の絆というテーマを描くこの物語でも、移民たちによって社会が形成されてきたアメリカ合衆国ならではの状況設定になっている。どういうことかというと、元の家族はイタリア移民系で、次男の育ての親はギリシア移民系なのだ。
つまり、家族の生活環境や文化がそれぞれ異なっていて、それは人格・アイデンティティの形成にかなり影響をおよぼすことになっている。
題名の意味を考えながら観ると面白い。
題名の意味はまさに「深淵 the deep end 」だ。海の果てに沈んでいたかと思われた家族の記憶、家族の絆が回復する、という意味だろうか。
残された家族は平穏な生活を取り戻すために、幼くして失踪した次男の記憶を深い海の果てに沈めていたけれども、心の傷はふとした機会に水面に顔をのぞかせ、疼きをもたらすことになる。
ところが、10年後、移住先のシカゴで失踪した次男と再会することになった。
しかも、別の家族の子どもとして育てられていた。
封じ込められていた家族の愛と記憶、そして心の痛みがよみがえってきた。あたかも、海の果ての深い底から浮かび上がったように。
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