ところが、部下への指示とは裏腹に、アントニオは、ヴィンセントがガタカのエリートになり済ましていることを確信するようになった。兄はジェロームになりすましていると。そして、この身代わり事件(殺人容疑も絡んでいる)を個人的に解決し(つまり、兄弟対決として決着をつけ)ようと企図するようになった。
ジェロームたちの宇宙旅行出発が数日後に迫った日の朝。
アントニオはガタカのオフィスに早朝から乗り込んで、ジェロームを問い詰めようとしていた。その様子を見たアイリーンは、オフィスのエントランスに行って出勤してきたヴィンセント(=ジェローム)に目配せをしながら、「今日は体調不良ということにして休暇を取りなさい」と告げた。
彼女の警告から捜査陣の包囲網が迫ったことを悟ったヴィンセントは、建物に入館しないで身を隠した。
アントニオは、ジェロームが出勤しないのを訝しがって、事務職員としてのアイリーンにジェロームのことを尋ねた。そして、今日は病欠扱いになっていることを知った。そこで、アイリーンを案内役として同行させて、ジェロームの住居を訪ねて尋問することにした。
ヴィンセントは物陰に隠れてその動きを窺っていた。彼は、すぐさま自宅新居ジェローム本人に電話を入れて「まもなく刑事がそこに行く。健康なジェロームとして(つまり車椅子を使用していない状態)振る舞ってくれ」と頼んだ。
本物のジェロームは車椅子から転がり出て、神経も筋力も麻痺した両脚を引きずりながら、螺旋階段を必死でよじ登った。そうして、どうにか階上の玄関近くのソウファに辿りついた。そして、冷静な表情を取りつくろってアントニオを迎えた。
だが、ジェローム本人を見て驚いたのは、アイリーンだった。
とっさにジェロームの演技に合わせてジェローム本人の恋人役を演じたが、頭は困惑していた。
一方、ヴィンセントがジェロームになり済ましている偽装を暴けると考えていたアントニオは、当てが外れた。これで、ヴィンセントを追及する方途は断たれたからだ。
しかも、そのときアントニオの部下の刑事から電話が入った。殺人の真犯人を捕縛したという連絡だった。
アントニオから、ヴィンセント=ジェローム容疑者説にこだわらず広い視野から証拠や状況を調べ直せと指示された捜査官が、被害者の遺体をもう一度詳細に検査したところ、被害者の眼球・眼窩に、もみ合いのなかで飛び散った加害者の唾液が付着していたのだ。
その唾液のDNA検査で加害者が、宇宙飛行計画部門のコマンダー(司令官)であることが判明した。
そして、コマンダーも容疑事実を認めた。というのは、もはやロケットの打ち上げ日程が確定してしまったので、自分が逮捕されても、宇宙船の発射は間違いなく実行されるからだ。飛行士育成部門の管理者がこの計画の進行に反対したために、彼を殺したのだ。
というのは、今週の発射を逃せば、次の発射計画は70年後――つまり、この次に地球の公転軌道に土星の公転軌道が接近する時期――になってしまうからだ。
しかし、それにしても、アイリーンはジェロームが2人いることに困惑していた。本物のジェロームの前に混乱して立ち尽くす彼女の前に、ヴィンセントが現れた。彼はアイリーンに事実と顛末を率直に打ち明けた。だが、そのときアイリーンは、この「身代わり計画」の意味もヴィンセントの考えも理解できなかった。
彼女も、ヴァリッドとインヴァリッドとの「能力差の神話」をこれまで信じてきたからだ。その神話は、科学の名を借りて社会全体にインプリントされた虚構=価値観なのだ。