寒冷で荒涼たるワイオミングの平原に移住してきたヨーロッパ人たち――多くは貧しい東欧や南欧からの移民――は、厳しい現実に直面した。荒れ地を開墾しようにも、乾燥した平原では水源が限られていた。河川や湧水は、すでに有力な大牧場主によって囲い込まれていた。
開墾の苦難の末にようやく穀物を作付けしても、冬季の寒気が厳しすぎたり、夏の旱魃がひどかったりすれば、まともな収穫は期待できず、家族の食糧にも事欠くありさまだった。
そんなとき、家族の飢えを見かねた男たちは、放牧された牛――だいたいは移牧中にはぐれた牛――を密かに捕まえて食肉にして、ようやく生き延びる算段をした。
妻や子どもを飢え死にさせないためには、ほかに仕様がなかったのだ。
だが、牛を放牧している大地主=畜産業者たちには、たまらなかった。というのも、ヨーロッパからの多数の移民たちは、あちこちに開拓地集落をつくっていたからだ。彼らはほとんど常に飢えていた。毎年、ワイオミング州だけで、何百頭、何千頭の牛が盗まれていた。
もっとも、大牧牛業者たちは、それぞれ何万頭、何十万頭という数の牛を所有していたから、盗まれる牛の数の比率は全体からすればわずかなものだった。だが、経営者は損失の発生には敏感で厳格だった。そして、貧困な開拓農民たちに対しては、少しも同情を抱かなかった。
西部辺境地帯では、大手畜産業者たちは、自分の放牧場を中心にしながら、大草原で牛の群を移動させて育てていた。大きな空間・距離にわたって牛の群は移動するので、牛の所有者を明示するために烙印を押していた。そして、州法では、烙印によって所有者を明示した牛を勝手に捕えることは「盗み」として禁じられていた。
というわけで、ヨーロッパから移住した零細農民たちと大牧牛業者(大地主階級)とのあいだには、根深い対立感情、敵対が蓄積していた。2つの階級の敵対は、火を噴き始めていた。
この州でいち早く大土地所有者となり資産を形成して経営基盤を固めた大牧牛業者たちは、「ワイオミング畜産者協会―― WSGA:
Wyoming Stock Growers Association―― 」を結成して、州政府や経済に大きな影響力をおよぼしていた。州知事は、いわば彼らのマリオネットのような存在だった。州内の各地方の行財政組織を牛耳っていたのは、WSGAのメンバーだった。
WSGAの指導者、フランク・カントンは、あとからヨーロッパから移住してきた開拓農民たちを「アナーキスト、犯罪者、牛泥棒」と非難がましく蔑視して、移動牧牛の経路から追い出そうとしていた。そして、彼らの牛を盗み出した農民を捕縛し、あるいは射殺するために、腕利きのガンマンやならず者たちを雇い入れ、独自の私兵団、傭兵隊に組織していた。
物語の冒頭では、盗んだ牛の解体をしていた開拓農民、ミヒャエル・コヴァーチ――名前からすると、ハンガリーからの移民だろう――が、雇われガンマンの1人、ネイサン・チャンピオンによって撃ち殺された。このときは、コヴァーチの牛泥棒の罪は証拠によって明らかにされ、当局から指名手配書類――それは射殺許可令状でもある――が発給されていた。