ことの発端は、北アフリカの植民地だったアルジェリアのフランスからの独立でした。
第2次世界戦争後、西ヨーロッパ列強諸国家の権力はかなり衰退し、アジア、アフリカ、ラテンアメリカでは植民地状態からの独立運動がどんどん活発化していきました。西ヨーロッパ諸国家の植民地支配のレジームはもはや崩壊することは避けられませんでした。
ところが他方、フランスをはじめとする西ヨーロッパ諸国の内部では、古くさい植民地支配のレジームにしがみついて富や影響力を保持してきた人びとが既得権益を守ろうと躍起になっていました。それは世論の分裂や対立を生み出していました。
アルジェリアでもついに1654年、民族(国民)解放戦線FLNが指導する独立闘争が火を噴きあげました。その後、反乱闘争はアルジェリア全土に広がり、1950年代末にはフランスの統治はとうに破綻していました。
独立を容認するか、それとも力で抑え込み、古めかしい植民地支配のレジームを維持し続けるか。
大統領の暗殺計画は、この2つの道の選択肢をめぐるフランス国民内部の闘争の結果でもありました。
その背景には、ヨーロッパ諸国民による植民地支配の世界的規模での破綻と終焉という世界システムの秩序の構造転換があったのです。
第2次世界戦争後、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの植民地支配は次々と解体していきました。
ヨーロッパを主戦場とする戦争の結果、破壊と荒廃を経験したヨーロッパ諸国家の力は目に見えて後退しました。植民地を抑え込んでいた諸国家の体制は、財政的にも軍事的にも立ち行かなくなっていきました。
独立への動きは、直接には現地住民の闘争と運動の結果でした。
が他方で、新たに世界覇権を握ったアメリカが、その経済的・政治的・軍事的影響力を包括的に浸透させようとして、植民地の独立を促進する戦略=政策を進めたからでもありました。西ヨーロッパ諸国に代わってアメリカ資本がアジア、アフリカ、ラテンアメリカで急速に影響力を拡大していきました。
植民地体制という、直接的な強制や抑圧による支配と収奪( immediate violence :直接的暴力と呼ばれる)は時代遅れになりました。
それに取って代わったのは、貿易や投資(資本輸出)、企業進出をつうじて「経済的な論理」によって支配・収奪する方式、すなわち構造的暴力( structural
violence )と呼ばれるものです。
フランスは、1940年代からヴェトナムの独立運動と戦って、60年頃には敗北が明白になっていました。そして今、アルジェリアを失おうとしていました。
しかし、フランスの右翼・保守派あるいは軍隊の強硬派たちは、大国の権威と威信は植民地の保有によって象徴されねばならない、と考えていました。
言い換えれば、フランスは大国だけれどもアメリカの力には遠くおよばず、もはや経済的手段によっては世界市場を支配する力量はもち合わせていない、という現実のゆがんだ、あるいは倒錯した自己認識でした。
けれども、国家の財政危機は軍事力の展開(の継続)を不可能にしていました。