シリーズ中で一番泣ける話だ(と私は思う)。
早季子から「最近、近所で空き巣が頻発しているらしいわよ。外に出かけるときは、ちゃんと玄関に鍵をかけていってよ」と言われた直也。ところが内心では「もと刑事の俺に防犯の説教かよ」と戸締りなどの防犯意識の高さを自画自賛していた。
ところが、直也が外出から自宅に戻ってみると、鍵をかけ忘れて出かけたことから、侵入した空き巣狙いがいた。
その男は窃盗ははじめての間抜けな男で、風呂場兼洗面所の床板を踏み抜いて、もがいていた。床板が腐って割れかけていたらしい。
直也は刑事時代の穏やかな尋問手法で、その男から事情を聞き出した。
男の名は三上昇。岩手との県境に近い青森県の田舎出身の人物だという。妻と娘を養うために東京に出稼ぎに来ていたが、長い不況のせいで稼ぎがなく故郷に帰れなくなって長いという。
そのため、妻には逃げられた――離婚されてしまった。
だが、東京では稼げない状況が続いたために、田舎に帰ることにした。深夜の高速バスのに乗るつもりだが、最初に東京に来て住んだ町(この近所)が懐かしくて、近所を歩いているうちに、ひょんなことから、猪瀬家に入り込んだ。鍵がかけてなかったからだ。
入ってみてから、せめて娘への土産のためにと、1〜2万円くらいをくすねようという「出来心」がわいたのだという。
直也は三上の純朴な性格を見抜き、大目に見てやることにした。そして、床板の修理をやってもらった。
そこに早季子が帰宅した。直也は、玄関にいた三上を「昔捜査で協力してもらった男だが、今日、田舎に帰るので挨拶に寄ってくれた」と、苦し紛れの方便で紹介した。
ということで、これまたお人好しの早季子が、三上に夕飯を勧め、三上はもうしばらく猪瀬家に留まることになった。
そこに、直也と早季子の一人娘、真紀――今では自立して別に暮らしている――が「帰宅」してきた。親子と三上の4人の夕食となった。
会話が進むうちに、直也が「仕事ばかりで家庭に目を向けてくれなかった」という話になった。これに三上は、自分の身につまされたのか、反論する。というよりも、自責と自嘲だったか。
「金を稼ぐために家族をないがしろにしてしまったが、仕方がなかったのだ」と。妻と娘のためと思えばこそ、無理をして仕事に追われたが、世の中なままならず、金もたまらず、結局、妻と娘から見捨てられることになってしまった、と。
やがて話が進むうち、三上の娘が今年21歳になり近く結婚式の予定なのだが、金のない三上は祝いの品も出せないから婚礼には出席できない、娘に顔向けできない立場にある、ということがわかった。着ていく礼服すらないというのだ。
そこで、三上が猪瀬を辞去するさいに、直也は自分の礼服(スーツ)を手渡し、床板修理に代金だと言って多金の入った袋を押しつけた。
「娘への祝儀にしてくれ」と言って。三上は固辞したが、直也はさらに押しつけた。
感謝感激の面持ちで、三上は猪瀬家をあとにした。
「盗人に追い銭」というお人好しを絵に描いたような物語だ。が、現役刑事の頃の猪瀬直也は、こんな風に職務を遂行していたのだろう。