ところで、天野は村でひとつだけの小さなスーパーマーケット――「スーパーあまの」という食料品中心の雑貨店というべきか――を営んでいる。だが、村の雑用全般を引き受けている村長の仕事が忙しいので、妻の亜希子に経営をほぼ全面的に任せていた。
目立つほどの美人、亜希子を演じるのは松たか子。高見は思わず見とれてしまった。
天野は村に到着するとそのスーパーの前で停車し、高見に妻を紹介し、当面の日用雑貨と夕飯用の弁当をタダで手渡した。人口が減り続けているこの村に移住した若者をできるだけ支援するつもりなのかもしれない。
そして、ふたたび運転席に乗り込むと、高見が住む予定の古民家――村人が「ボロ家」と呼ぶほどに屋根が傾いている――まで運転し、高見の荷物を家まで運び、これまた乱暴に投げ込んだ。
ところが、天野は高見が住居に電気や水道、ガスを供給してもらう契約をしていないことを知って驚いた。炉端に炭や薪もない。驚くべきことに、田舎生活への準備が何もない!
「1銭もお金を使わない生活をめざすんで……ヒートテックの服を持ってきました」という高見の説明に驚き、強い調子で警告した。
「東北の夜の寒さをなめるなよ、ほでなす(あほたれ)」と。
案の定、その夜半に村には氷雨が降り、高見は寒さに震えあがった。
そして、耐え切れなくなって、薄いレインコートを羽織って雨中に戸外に出て、寒さに震えながら囲炉裏にくべる薪を切り出そうとした。そんな高見を心配になって見回りに来た天野が家の中に入れて、暖かい飲み物を与えた。
死にそうな思いをしながらも金を1円も使わないという悲壮な覚悟を示す高見を見て、天野は、この若者は金をめぐって相当に悲惨なトラブルを経験したのだろうと見当をつけた。
さて、高見が勤めていた銀行は経営危機に陥って大手銀行に吸収合併された。するとそのあと、融資縮小のために「貸しはがし」を進め、それまで融資していた中小零細企業などから厳しく返済取り立てをおこなうようになった。
資金を絶たれ、強引な取り立てにあった企業の経営者たちが、追い詰められて次々に自殺していく。融資渉外担当だった高見は、そういう悲劇を見続けることになった。
そういう悲惨な経験が原因で、高見は金アレルギー(金銭恐怖症)という精神病理状態に陥ってしまった。札や硬貨を見ると身体がこわばり、金にさわると失神状態に陥ってしまうのだ。貨幣経済への不適応シンドロームというべきか。
現代社会では金を使わなければ生きていけない。にもかかわらず、高見武晴は金を使うことができなくなってしまった。
1円も金を使わないで生きる道を探すしかないということで、彼は東北地方の片田舎の小村に移住し、自給自足で暮らしていこうと決心した。
高見は貯金のなかから100万円をはたいて、「かむろば村」のボロ家と呼ばれる古民家を買い取り、その近所の農家から水田を借りて稲作を始めようとした。
ところが、高見は農業に関してはまるきり無知だ。能天気なのだ。