映像物語の冒頭で仙台藩領にある――仙台の町からおよそ6里ほど北にある――奥州街道吉岡宿の置かれた悲惨な状況が語られる。吉岡集落は、通常よりもはるかに厳しい条件で、街道の貨物継立てにおける伝馬役を担うことが年貢(納税)として義務づけられていたためだ。
江戸時代、幕藩体制下での主要街道の旅客輸送や物流の仕組みは、宿駅制度に支えられていた。宿駅とは宿場町のことだが、貨客の輸送や宿泊・休憩機能を担うことを義務づけられていた。
このうち吉岡宿が担っていた伝馬という制度について見てみよう。
映画作品のナレイションにもあるように、街道宿駅は貨客輸送の継立てサーヴィスを原則上、費用自己負担でおこなうことになっていた。継立てとは、自分たちの前の宿場町から貨客を受け継ぎ、自分たちの次の宿場町まで貨客を送り届ける業務だ。
この業務を取り仕切るのが問屋で、小さな宿場町では本陣(名主と駅長の兼務)は問屋を兼務していた――比較的に大きな町では本陣と問屋とは分業していた。原作にも映画でも説明はないが、吉岡宿は宿泊施設でもある本陣がなく、肝煎役(村長=名主または庄屋のこと)が問屋を兼務していたようだ。
貨物の輸送は、馬を使って輸送する伝馬役と自分で荷物を背負って運ぶ歩行役とがあった。伝馬役は馬をあつかうので馬方とも呼ばれた。
伝馬役は馬を所有し飼っていた。吉岡宿のように小さな村落では、農耕馬を持つ農民が肝煎の指示を受けて、藩や幕府公用の荷物の運搬をおこなった。幕府や藩から命じられれば、農繁期でも農耕を休んで伝馬役の仕事をしなければならない。この輸送業務については、原則として、肝煎から馬の飼葉代(餌代)や馬方としての手間賃が支払われる――ともに低額で定額。
伝馬に支払う飼葉代や手間賃(駄賃と呼ぶ)は、肝煎が集落の住民から集めた税(分担銭)からなる資金からまかなわれる。つまり、結局のところ、吉岡村は伝馬の費用を自分たちで用立てて再分配しているわけだ。
言い換えれば、伝馬役の仕事をこなし、その費用を自弁することが吉岡村の年貢・納税とされていたのだ。
通常であれば、大量の荷物の輸送や何日も要する輸送にさいしては費用が過重になるので、幕府直轄領や旗本領――徳川家が家臣に分封した所領――であれば、宿場側の財政報告を受けて赤字を補填する助成金が支給された。また仙台藩領の宿場町なら、藩から助成金が出た。
ところが、吉岡宿は藩の重臣の所領で、おそらくその重臣(小領主)が煩雑な手続きを逃れるためにしかるべき手続きを怠ったためだろうが、ここには伝馬役にともなう過重な負担に対する助成がなかった。そのため、伝馬役の費用は赤字になり、それを肝煎が負担し、後で村の住民に分担させて銭を集めていた。
つまり、伝馬という宿の年貢のために住民たちは毎年かなり重い資金負担を強いられ続けていた。そのため、その負担に耐えかねて土地や家屋を失って破産したりして、欠落・夜逃げする住民が後を絶たなかった。集落の人口が減れば、その分だけ残った住民一人当たりの負担は重くなる。
人口がある限界を超えて減れば、もはや伝馬役負担も担いきれなくなって集落は衰滅することになる。
18世紀後半になると、街道宿駅が幕府が決めた賃料で貨客の継立て業務をおこなう街道=宿駅システムは、幕府の直轄領でももはや財政的にまかないきれなくなっていた。皮肉なことに、経済の発展成長の結果であった。
経済が活発化し流通が膨張すれば、インフレイションは不可避だ。だが、幕府が街道の輸送料金を決定するシステムは、膨張する市場経済に見合った価格体系の成長を異様に抑え込み、捻じ曲げていた。
もちろん市場経済は権力システムだから、独占や寡占状態は当たり前で、富と権力を保有する商人団体が支配しやすい価格構造は避けられない。それでも、街道輸送業者がその生産手段(馬や運搬具、建物設備など)の経年劣化に対して減価償却し、その廃棄更新のサイクルをまかなう最低限度の価格相場機能がはたらかなければ、いずれシステムは破綻し崩壊する。
商人が主導する資本主義的な再生産システムは成長していたのだが、それを統治する幕藩体制(封建法)は交換システムの運動を過剰に捻じ曲げていた。
たとえば、吉岡宿よりもはるかに有利な立場にあった信州の中山道の木曾路でさえ、すでに1840年代には街道=宿駅制度は財政的に破綻していたことが史料から裏づけられている。明治維新を待つまでもなく、幕藩体制は19世紀半ばまでには崩壊の淵にあったのだ。