街道での荷物輸送と継立て業務――伝馬役の指揮――を担っている肝煎、遠藤幾衛門(寺脇康文)は、じつは吉岡宿がさらに衰退して伝馬役を果たせなくなることを人一倍恐れていた。吉岡町の長として藩命にしたがって伝馬役を無事こなすことが肝煎役の義務だったからだ。
だが、年を追うごとに伝馬役を果たすことは難しくなってきている。
宿場町の人びとの生活が健全に成り立ってこそ、はじめて肝煎の仕事も果たすことができるのだから。
そのため、伝馬役の費用負担を少しでも軽減して町の経営が成り立つようにする方策がないものだろうかと日々悶々としていた。ことに数年前にようやく跡継ぎの長男、桃吉が生まれてからは、自分の跡を継ぐはずの長男のために、吉岡宿をこれ以上にさびれさせるわけにはいかないと思っていた。
「この子の行く末が心配だ。この子のために何とかしなければならない」これが、このところの幾衛門の切実な気持ちだった。
そして、わが子への愛情は、そのままこの町の子どもたちの幸福を願う気持ちに結びついていた。
そんなところに、殿さまに大金を貸して利息を受け取り、利息収益を伝馬の費用負担に充てるという手立てを取ろうという提案を穀田屋と菅原屋が持ち込んだのだ。
■肝煎の覚悟■
「そんなことができるのですか」と肝煎は感激した。
「私たちが同志として覚悟を決め手を組み、1000両を集めれば何とかなります」と穀田屋は説得した。
肝煎は、ようやく寝かしつけたわが子の顔を眺め、そして妻と見交わし合い頷いた。
「私もその話に加わります。わが家の財産をすべて投げ打ってもいい。この子の将来の苦しみがなくなるのなら、何でもしますよ。
家作も田畑もすべて売り払っても構いません。吉岡宿が何とか立ち行くようになるのなら無一文になってもいい。私らは身売り奉公でも何でもします。
身売り奉公とは、すべての資産を失い、生活するために奉公(賃金労働)に出るということだ。ここではもっと意味が強く、必要な金を得るために一切合切を売り、さらに借財を負い、その債務返済のために奉公に出るということで、いわば債務奴隷の地位に身を落とすという意味だ。
肝煎の遠藤幾衛門は、村長ないし町長としての肝煎が藩に対する納税としての伝馬役を果たすことができなくなった場合、年貢納税の懈怠として捕縛され、容赦なく藩の牢屋に押し込められてしまうことを恐れていた。その牢は北上山地の麓で冬場はものすごく寒く、そこに帷子一枚で収監されれば凍死することは避けられない。
しかも、幾衛門本人ばかりでなく息子の桃吉も一緒に収監されるのだ。幾衛門本人でさえ、冬場の牢の生活には耐えられないのに、幼い息子はさらに悲惨だ。
そんな悲惨な運命を避けるためなら、家財を失いことくらい何ほどのことはない。そう幾衛門は思い極めていたのだ。
■大肝煎に当たれ■
穀田屋の無謀な企てを押し止めるだろうと思っていた肝煎が、同じように熱心にこの企図にのめり込もうとしている。菅原屋としては、大きな思惑違いだった。そこで、この暴走に歯止めをかけるために、菅原屋はさらに大それた提案を打ち出した。
「こうなったら、大肝煎に相談しましょう」
江戸時代の仙台藩では、肝煎(庄屋または名主)が個々の町村の代表だとすると、そういう町村をおよそ10ほどを集めて郡という統治単位を組織していた。およそ10か町村を束ねて代表するのが大肝煎(総庄屋・大名主)だった。郡内で最も富裕で有力な百姓家門から選ばれ、世襲で役職を担っていた。
大肝煎は町村住民の代表だったが、郡奉行の下の代官の下代(補佐役)ともいうべき地位で、名字帯刀を許されていた。そして、この時代には家屋敷の造り――薬医門や長屋門の設置を認められるかとか――や外出自の服装についても身分ごとに規制が課されていた。
吉岡宿の上に立つ黒川郡の大肝煎は、千坂仲内だが、千坂家は雨天の外出時に雨傘を用いることを許されていた。一般町民や農民は雨降りにさいしては菅笠に蓑傘で外出するしかなかった。そして、千坂仲内はさらに武士身分に取り立てられることを願っていた。
そんな大肝煎だから、こんな大それた企図には掣肘を加えてくるだろうというのが、菅原屋の読みだった。
ところが、仲内は穀田屋十三郎、菅原屋篤平治、遠藤幾衛門による申し出にいたく感動して、同志に加わると言い出した。
「近頃の郡内の者どもの願い出は、おのれの利になることばかりを求めるものだったが、あなた方の願いは、お上から受け取る利息を自らは受け取らず、宿の伝馬のために用立てするという。じつに見事な心意気。
本来であれば、こういう方策は大肝煎である私が思い立たねばならないものだ。ぜひ私も同志に加えてくだされ」
大肝煎の千坂仲内の参加は、彼が郡の住民を代表して代官に要望を出す資格権限が藩から認められているため、この運動の不可欠の条件だった。