公安情報部は1985年に、マンデラをロベン島からケイプタウン市内の病院に移送した。その3年後の88年には、開放的な雰囲気でより安全なヴィクター・フェルスター刑務所にマンデラを移すことにした。そこで、特別の任務としてマンデラの身辺管理と警護を担当する刑務官が必要になった。
その特任の刑務官は、マンデラの側近にいて、政府や公安局との非公式の折衝や連絡を仲介する役割が重要となる。そのためには、コーサ語に堪能なうえにマンデラから信頼される人物を配置しなければならない。
というわけで、ジェイムズ・グレゴリーに白羽の矢が立った。
ジェイムズはこうして、公安情報部の准将の指揮下でマンデラの安全確保と連絡をおこなう係を務めることになった。以前とは全く異なった形でマンデラを見守る任務に復帰した。
心配するグローリアをジェイムズは、「今までの12年間は平穏だったが退屈だった。国が正しい方向に転換するときに、そういう歴史の一部分を担いたい」と言って説得した。そして、息子のブレントを彼の助手として採用することを決めた。彼は、臨時雇いの刑務官をしながら通信制大学で法律学を学んでいた。おそらくそれは、いずれこういう事態になるだろうと読んでいた公安情報部の特別の計らいだっただろう。
ブレントは多くの同世代の知的な若者と同じように新しい世代の白人青年層に属していて、政治指導者としても弁護士(法律家)としてもマンデラを尊敬していた。マンデラの身辺管理にあたって、法律家を目ざすブレントは法学研究においてマンデラに私淑していた。マンデラから商法などの指導を受けていた。そのため。ブレントの成績はすこぶる優秀だった。
白人青年が、黒人運動の指導者を尊敬する。そして自ら進んで学問上の指導を受ける……それほどに、この社会の意識状況、イデオロギー状況は構造転換していたのだ。
映画ではこの間の推移が脚色されて、マンデラはヴィクター・フェルスター刑務所に移される前に、ロベン島から病院ではなく別のずっと環境の良い監獄に一時的に収容されることになっている。ジェイムズは、その監獄への勤務で「復帰」するという話の流れになっている。
ところが、マンデラの指導や助言で優秀な成績で法学の学位を授与される寸前に、ブレントが交通事故で死んでしまう。ジェイムズは、かつてマンデラの息子テンベがやはり交通事故で死亡した事件について、当局(極右分子)が仕組んだ陰謀の可能性があると疑ったことがあった。それを思い出したジェイムズは、ブレントの死は、マンデラやANCメンバーの手紙類を検閲・スパイしたジェイムズに神が下した罰(報い)だったのではないかと悔やむ。そうと思わざるをえないほどに皮肉な巡り合わせだった。
マンデラはジェイムズに心からの弔意を伝え、ジェイムズが検閲やスパイをおこなったことは当局の命令によるもので、あのときの政治的状況では白人刑務官としては仕方がなかったことだと宥めた。ジェイムズはマンデラに対して誠実で公正に接したと。