マンデラの名もなき看守 目次
人種隔離とヒューマニティ
原題と原作
現代の制度たるアパルトヘイト
あらすじ
南部アフリカの植民地化
アパルトヘイト政策
冷戦で生き延びたアパルトヘイト
ロベン島(監獄島)
敵対に引き裂かれた社会
マンデラとの出会い
マンデラの監視
自由憲章
苦悩への共感
募りゆく職務への嫌悪
ジェイムズの孤立
決   意
崩れゆくアパルトヘイト
焦点となったマンデラ
グレゴリーの「復帰」
マンデラ解放への道筋
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南部アフリカの植民地化とブリテンの支配

  ところで、そもそも1910〜13年に形づくられた「ブリテン領南アフリカ連邦共和国」なるものは、ブリテン植民地帝国に固有の特殊な政治組織だった。それは、ヨーロッパ諸列強による勢力争いと植民地分割闘争の長い歴史の結果だった。

  15世紀末にバスコ・ダ・ガーマが大西洋からアフリカ南端を回航してインド洋にいたる航路を発見したときから、ヨーロッパ人による支配の歴史が始まった。喜望峰と呼ばれることになった大陸南端の岬の近隣地帯は、インド洋への進出を企てるヨーロッパ諸列強にとって貿易上、軍事上の戦略的拠点となった。まず最初、16世紀初頭にアラビア人やインド人、東アジア人によるインド洋貿易に割り込んだヨーロッパ勢力は、ポルトガル王国だった。
  16世紀後半、ヨーロッパ世界市場で最優位を獲得したネーデルラント連邦がアフリカに進出していく。その世紀の末にはアフリカ南端の要衝を攻略した。そして、インド洋とアジアをめぐる貿易での覇権を構築すべく1602年に連合東インド会社を創設した。その年には、アフリカ大陸南端部は、ネーデルラント連(=連合東インド会社)のケイプ植民地となった。

  ところが18世紀末になると、アフリカ南端はブリテンの勢力圏に取り込まれた。だが、内陸部ではネーデルラント系植民者たちが独自の勢力圏を築いていた。19世紀になると、アフリカ大陸南部はヨーロッパ列強の勢力争いの舞台となり、植民地としての分割・再分割闘争が展開される。大雑把にみると、19世紀末には南西アフリカ=ナミビア地方がドイツ領、アンゴラ・モザンビークがポルトガル領、ローデシアからトランスヴァールを経てケイプ地方までがブリテン領となった。
  とはいえ、この地域にはヨーロッパ諸国の植民者たちが移住して実力に応じて局地的な権益や利権を確保していたので、ヨーロッパ各地からの植民者たち――ネーデルラント系、ベルギー系、ドイツ系、ポルトガル系――の勢力圏がモザイク状に入り乱れていた。

  南アフリカ連邦共和国なるものは、18世紀末以来、ブリテンが世界のヘゲモニーを握るとともに、それまでヨーロッパの雑多な地方からの植民者――プランターや鉱物採掘者、貿易商人など――によってアフリカ南部に建設された離れ離れの植民地を、ブリテンが軍事的・政治的・経済的に無理やり寄せ集めて統合していくことで、形成されたものだった。
  この帝国的統合に対して根強い抵抗や反乱を続けたのがアフリカーナーだったで、彼らはネーデルラント連邦やベルギー、ドイツ西北部から移住した植民者の集合だった。

アパルトヘイト政策

  ブリテンの世界帝国に統合されてから、植民地支配装置の頂部を占めていたのはブリテン人だったが、白人層の社会文化の主流を占めていたのはアフリカーナーだった。「アパルトヘイト」という用語自体が、ドイツのライン下流からネーデルラントにかけての地方の人びとが話していたドイツ語方言――やがてネーデルラント語となる――に起源をもつ。そういう低地地方ネーデルラント訛りをともなう南アフリカ独特の英語をアフリカーンス( Afrikaans )と呼ぶ。
  とにかくそういったしだいで南アフリカでは、ほかのアフリカ大陸植民地のように、原住民社会の上にヨーロッパ系白人が植民地支配レジームを被せるという構造ではなく、黒人原住民を白人が利権を得た土地から駆逐してから白人層が企業や農場、鉱山などの経営のための枠組みを排他的に構築し、そこに低賃金の半奴隷的な労働力として、南部アフリカ各地・各部族の原住民を寄せ集めて押し込めていくということになった。

  現地の有力企業や農場を経営し支配していたのはヨーロッパ系白人で、ブリテンが経済的に支配・収奪したのは、経営者としての白人だったのだ。もちろん、白人経営者層は、有色人種――アフリカ原住民とインド人など――を抑圧し搾取していたのだが。アフリカ人はこうして二重、三重の支配と収奪を受けていた。
  そして、ブリテン帝国による植民地支配に直接に抵抗し反乱していたのは、主要には、黒人原住民ではなかった。政治的=軍事的・国家的独立をめざしていた最有力の勢力は、アフリカーナー系白人層だった。それゆえ政治的次元では、1961年のブリティッシュ・コモンウェルスからの離脱という形での南アフリカ独立による最大の受益者は、アフリカーナー系白人層だった。
  ただし、ブリテン資本が南アフリカを経済的・金融的に支配・搾取し続ける分厚い仕組みは厳然として継続していた。

  彼らは、政治的独立を獲得するうえでは、撤収されるはずのブリテンの植民地統治レジームに代わって、現地白人層による原住民の支配と抑圧の仕組み――黒人層を無権利状態に置き続けるためのレジーム――を構築していかなければらなかった。
  こうして、表向きは解体・撤退していくブリテンの統治装置に代わって、白人による支配装置が創出されていくことになった。そのさい、原住民への支配や収奪が、国際世論では強く批判・非難される状況のなかで、黒人層が権利意識に目覚めたり、政治的に結集して市民権と自立を求める独自の運動を組織したりできないように、徹底的に弾圧・抑圧し、彼らを怯えさせ委縮させる装置が、白人支配層には必要だった。
  それがアパルトヘイトという暴力的な恐怖支配のレジームだった。

  さて、アパルトヘイトのもとでは、インド人などの差別扱いもあったが、人口の圧倒的多数を占める最下層の黒人――白人が300ないし400万の人口に対して、黒人が2000万ないし2500万ほど――を恐ろしいほど徹底的な無権利状態に押し込めていた。。
  黒人たちは、政治的権利を奪われているばかりか、土地所有権や占有・耕作権はなく、居留地以外での居住権や移動の自由、旅行の自由もなかった。白人居住地の企業や鉱山、農場、あるいはメイドとして働く白人家庭に出向くためには、身分証と移動許可証を携帯しなければならなかった。携行しなければ、警察によって暴力的に拘束され、収監されることになった。

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