今回はブリテンの国家装置としての王室や王制の独特のあり方を描き出したドキュメンタリー・フィクション映画 film The Queen, 2006 を取り上げてみよう。
ブリテン連合王国における国家装置としての王室ないし王制というものは、多様な民族や階級、社会集団をひとつの国民へと政治的に統合するための仕組みとして存在し機能している。つまり、国家の内部の住民たちに絶えず「国民」としての一体感イメイジを振り撒き、世界の諸国家のあいだで1国民としての自分たちの独自性とアイデンティティを意識させる役割があるのだ。
「君臨すれども統治せず」というイングランド王室のあり方には、内部に深刻な利害対立や分裂要因をいくつも抱え込んだブリテン諸島の社会と住民集団を、あたかも安定した「ひとまとまりの国民国家」として表象し象徴するという機能が必要とする、さまざまなイデオロギー的擬制や装飾・虚飾をともなっている。
王族はヨーロッパ最大の富豪にして地主領主である家門であり、ブリテンでは最有力の金融資産・文化資産を保有し、支配階級・エリートの頂点に位置している。
上記の統合機能ないし象徴機能を果たすためには、王室・王族は国内住民に対して概して「好印象」を与える存在であることが望ましい。それがブリテンの支配階級総体の願望・要求となる。
しかし、王族のメンバーが生身の人間であり、抑制されてはいても人並みの自意識や好悪の感情を抱き、さらにまた鼻もちならないほどに恵まれた大富豪のなかの大富豪であって現世の利害にも深く絡んでいる限り、しかも常にメディアの異常なほどの好奇心の的となっている限り、人びとの「好印象」からかなり逸れた行態を示すこともあるだろう。「スキャンダル」になってしまうこともある。
この映画は、幼少期から王族としての心性や振る舞い、自己抑制を求められ、王としての政治的役割を課されたエリザベス2世が、生身の人間として、そして洗練された王族・エリートとして、大きな政治問題・文化問題となった家族のスキャンダル(事件)に向き合う姿を描き出す。
そして、女王位が国家装置であることからして彼女は、ブリテンのあれこれの政治装置やメディアとかかわり合いながら、統治には直接には関与しないが君臨する――影響力の大きな政治的役割を演じている――者としての意思決定あるいは選択を迫られる立場にあるのだ。
見どころ
1997年の晩夏、パリの自動車道トンネルでの事故でダイアナ・スペンサーが死去した。王太子チャールズとの婚約以来、結婚を経て離婚後も世界のマスメディアの寵児となっていたダイアナの事故死は、ブリテンの王室と政治に大きな衝撃をおよぼし続けることになった。
映画 《 The Queen 》 は、チャールズと離婚したダイアナが事故死してから1週間たらずの王室や首相府、メディア報道の動きを背景としながら、女王エリザベスの苦悩や心情の変化を描いたドキュメンタリーフィクション。
マスメディアが発達した「マスデモクラシー社会」では、旧来的な身分秩序の象徴である王制の存在意味や王の立場は微妙なものだ。メディアがつくり上げた虚像に依存しなければ、存続できないからだ。
事故死のときダイアナは、すでにプリンス・オヴ・ウェイルズのチャールズとは離婚し、王家から離脱していたので、公式の制度上は、王室が彼女の葬儀や追悼に直接関与する筋合いではなかった。
ところがマスメディアは、あたかもダイアナに同情するかのような立場を装いつつ、王室の態度を「冷酷」だと決めつけ非難する報道を執拗に続けた。それはまた一般民衆の心情に浸透しやすい情報・心情だった。
エリザベスは自分が理想とする王と王室の威信を守ろうとする。だが、そのスタイルは、現代ブリテン社会の風潮ならびにメディアの論調とは大きく隔たっていた。こうして王室と女王は、メディアが伝えるところの「大衆の気分」によって包囲され、孤立することになった。
国民国家の政治的・イデオロギー的装置としての王室(王また女王)は、社会の統合のために、時代が変われば行動スタイルと思考スタイルを変更しなければならない。ブレアは統治階級の一員として《王国レジーム》を守るために、王室と民衆意識との深い溝を埋めるべく行動した。
結局、女王は当初の決定を変更して、葬儀に王室が関与していくことになる。 その間の王室をめぐる動き、そして何よりも孤立したエリザベスの苦悩や心情の変化を描くのがこの作品。これはすぐれた政治構造の分析の映像化といえる。
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