香織は左腕の怪我のため部活の練習をしばらく休んだ。その間に、インターハイが1か月後に迫ってきた。だが、怪我が治ったにもかかわらず、香織は部活の稽古に出てこない。そればかりか、自宅道場での稽古もしなくなってしまった。
自分が剣道をやる意味を見失ってしまったのだ。なぜ見失ってしまったのかという理由は、明白には描かれない。
推察するに、インターハイ予選の決勝で、勝ちを求めない早苗が無心で打ち込んだ面を見てから、香織は勝敗にこだわり続けてきた自分のスタイルに疑問を持ったのがきっかけだったようだ。
剣道は勝敗を求めるだけではないこと、強さというものが相手に勝つだけではないことを思い知らされたのではなかろうか。
ひたすら相手に勝つという強さを求め続けてきたスタイルに疑問を抱き、目的を見失ってしまったのだろう。
剣道が当たり前の日常生活だった家庭環境から、香織はごく自然に、ほかの選択肢を考えることもなく、幼い頃から剣道に打ち込む生活を送ってきた。幼児期に同年代の友だちが公園のブランコで遊んでいて、一緒に遊ばないか誘われたときにも断って剣道の稽古をした。剣道以外にほかの楽しみや趣味に関心を向けたこともなかった。
いったい何のためにあたしは剣道をしているのだろう。悩んでも悩んでも答えは見つからなかった。
自宅道場では父親から、剣道を続ける目的――何のためにやるのか――を見出すまで道場には来るなと突き放されてしまった。
剣道部の顧問、小柴先生はインターハイ団体戦のメンバーを選抜し部員の前で発表した。もちろん部活に出てこない香織は選ばれず、その代わりに早苗が先鋒としてレギュラーに入った。
「磯山が部活の稽古に来ない以上、メンバーに選びようがない。これが現時点でのベストメンバーだ」というのが小柴先生の言い分だった。
剣道部の部長(3年生の主将)の村浜は香織を心配して、自分が話して部活に呼び戻そうかと顧問の小柴先生に提案した。だが、小柴は「いや、ここは磯山にまかせておこう。折れてこその心だ――心が折れる経験も必要なんだ――。」と返答した。
小柴は「折れるような心は持っていない」と言い切った香織が、いまここで心が折れた状態に陥って悩むことが大事だと見ているのだ。香織自身が悩んで答えを見つけ出すべきだと考えているようだ。幼い頃から迷いもなく剣道打ち込んできたが、思春期に自分の生き方について悩むことも必要なのだ、と。
ところが、早苗は香織がいない稽古に身が入らない。それで、ある日、部活の稽古をさぼって香織に会って話し合おうとした。早苗がキャンパス内を探し回ると、香織はプールの縁に腰かけてぼんやりしていた。
早苗は香織に剣道部の部活の稽古に来るように誘ったが、「あんな手ぬるい稽古に戻るつもりはない」と断られたうえに、「もう剣道部をこのままやめようと思う」と言われてしまった。早苗は香織が独りでもがき苦しんでいると感じて「ねえ、本当の気持ちを言いなよ」と持ちかけたが頑なに拒まれた。
早苗は少しムキになって「私に負けたくせに」と突っかかった。
香織は「あんなのまぐれで、本当に勝ったことにならない」と言い返して、険悪な諍いになり、結局、早苗は「じゃあ勝手にしなよ!」と言い捨てて立ち去った。