今では60歳ぐらいの有名な指揮者となっているピエール・モーロンジュは、母ヴィオレットの死去の報を受けて、公演中のアメリカからフランスの生家(母の家)に帰郷した。そんなピエールを同年輩の男が訪ねてきた。
男は「ペピーノだよ」と名乗った。幼い日のニックネイムだ。
とはいっても、ピエールは本名を知らなかった。
ペピーノは1冊の日記帳を取り出してピエールに手渡した。「クレマン・マテュウ先生からの遺贈品だよ」と言って。
日記には、クレマンが1948年の冬に「池の底( Fond de l'Etang )」という特殊な寄宿学校に赴任した日からのできごとが記されていた。
「池の底」学校は、いわば問題児を収容して教導・矯正することを目的とする特殊な公立の寄宿学校だった。
寄宿舎監――教師と寄宿舎の監督係を兼務するポストの人物――が突如退職したためにポストに空きができ、クレマンが採用されたのだ。
最初に学校に赴いたとき、ゲイトで出会ったのは、まだ幼いペピーノだった。
ペピーノは門柱に寄り添って、彼を迎えにくる両親を待っていたのだ。だが、彼の両親は戦争のなかで殺されていた。
その現実を理解できない、いや受け入れられないペピーノは、「土曜日になれば、両親が迎えにくる」と信じて待っているのだ。
■「池の底」の衝撃の実態■
クレマンは赴任した初日から、「池の底」という施設の衝撃の運営実態に直面することになった。
まず校長のラシャンはゴリゴリの権威主義者で、名誉欲と出世欲が深く、子どもたちに対しては自分の権威を暴力と威嚇を持って押しつけていた。学校の秩序と平穏は力と威嚇・強制をもって保つべきもの、と信じて疑わなかった。
いや、それしか指導者としての方針をもっていなかった。
もっとも、1940年代、日本も含めて「先進諸国」の社会や学校の仕組みや運営体制は、そんなものだった。
こういう権威主義的な思想や管理方法は1960年代までフランス社会に根を張り続け、1968年の「パリ市民革命」によって掘り崩されていくはずのものだった。
さてラシャンは、赴任のあいさつに来たクレマンにも、高圧的な権威主義者の顔を見せつけた。
校長の力と威嚇による支配に対して、少年たちは陰湿で粗暴な反抗心を隠さなかった。
だから、子どもたちの粗暴ないたずら、それに対する報復としての厳罰という悪循環が繰り返されていた。
そんなこんなで、その日、用務員、ル・ペル・マクサンスが子どもの陰湿ないたずらに出会って顔に大けがをしてしまった。ガラスドアの鍵の周囲に太いゴムを巻いておいたため、ガラス板がはじけ飛んで、マクサンスの頭部を直撃したためだ。
「悪質な罠を誰が仕かけたのか」を問いただすため、ラシャン校長は、生徒全員を校庭に集めた。威嚇と脅迫によって「犯人」が名乗り出るように命じた。誰も名乗り出ない。
そこで、ラシャンはクレマンに生徒名簿を手渡して「懲罰を与える生徒」を選ばせた。その子を反省独房に押し込んで、「真犯人」に名乗り出るように命じた。
事故の原因や因果関係、問題の発生過程、そして解決の方法を考えることもなく、とにかく誰かに懲罰を加え「見せしめ」とする。威嚇と恫喝、これがラシャンの「教育方針」だった。
ほとんど教員たちも、ラシャンの方針に沿って指導・教育をしていた。
「やつら(生徒)に油断して背中を見せると、とんでもない目――マクサンスのように――に会うことになる」というのが、教員たちのクレマンに対するアドヴァイスだった。