そういう過酷な運命を甘受する覚悟があって決断してきたのか、それが問われるのだ。
だが、筋金入りの軍人と自任してきたシュリューターにしたところで、わが身が見捨てられる立場を予測し覚悟してきたわけではなさそうだった。みじめにも、見苦しい「悪あがき」と口汚い罵り=怨嗟を振り撒いてしまった。醜態を見せつけたのだ。
放埓な皮肉屋、コナーは、冷めた態度で、シュリューターの悪あがきを眺めていた。これから地獄が待っている、と。
だが、それはコナー自身にも当てはまることだった。だから、最後のセリフは、
「お前にも俺にも、このさき過酷な結末=運命が待ち構えているんだよ」。
ただ、コナーの方が泰然自若としている。そして、シュリューターの悪あがきをひときわ「高いところ」から見おろしている。まさに、それ――過酷な運命を突き放した目で泰然と受け入れる態度――がブリトン(ブリテン人)なのだよ、というメッセイジなのかもしれない。
そして、コナーはブリテン人だが、ブリテン本土ないしイングランドには長い間抑圧され、それゆえまた反乱を繰り返してきたアイアランド人でもある。辺境のエスニシティである。しかも、場所はこれまた辺境のスコットランド。
この皮肉な結末、ブリティッシュ好みなんだろうなあ。
底の浅い「愛国者気どりの日本人」は、「自虐史観」と呼ぶかもしれない。だが、長期にわたって世界経済でヘゲモニーを揮ってきたブリテン人インテリたちの透徹し冷めた歴史観は、「これこそが歴史なのだよ」と呟く。面白がって、歴史の暗闇を分析解明したがる。
世界に君臨したブリテン帝国の権力と繁栄は、世界の圧倒的多数者の悲惨と窮乏の上に、つまり彼らを支配することで成り立ったことは誰の目にも明らかだからだ。
ブリテンに先駆けて世界経済を支配したネーデルラント人インテリにも、似たような態度が見られるような気がする。
他国民を収奪し抑圧したという「負の歴史」は、かつて自分たちが「世界に優越する国民」だったこと――「過去の栄光」――の裏側にあった事実なのだ。自分たちをやたら正当化したがる歴史観は、知性の厚みない「成り上がり」――最高のヘゲモニーを手にすることもない国民――の発想だというのかもしれない。
もちろん、はじめはヨーロッパの辺境から覇権に登りつめたブリテン国家も成り上がり者だった。だが、その地位を持続させていく過程で、知的エリートが自己の歴史を冷めた皮肉な目で眺める方法が身についたようだ。
20世紀半ば以降、世界の覇権を握ったアメリカはどうだろう。イマニュエル・ウォーラーステインが「それまでの覇権国家の没落」「覇権国家の交替」の歴史理論を提起したのは、冷めた皮肉な歴史観の成熟の象徴なのだろうか。それとも、覇権=過去の栄光にすがり続けるのか。
私は歴史対するこのように冷めく突き放した態度が大好きだ。
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