実際のベルンハルト作戦の結末はどうだったのだろうか。
東部戦線では、1945年1月にはソ連軍はポーランドを攻略し、ハンガリーをも占領した。ドイツ国境まではあとわずかに迫っていた。
一方、西部戦線では1944年6月に連合軍はノルマディ―上陸作戦を成功させ、その年の10月にはドイツの西側国境を突破した。そして1945年冬から春にはニーダーザクセン州を攻略し、ソ連軍と競争するようにベルリンに迫っていた。
1945年2月の終わりごろ、ドイツ軍総参謀本部はザクセンハウゼン強制収容所に対して、ベルンハルト作戦を停止し印刷機器・機材の撤収とオーストリアへの避難を命令した。そして、この醜悪な作戦の証拠を完全に隠滅するために、オーストリアのトプリッツ湖に沈めさせたという。
他方で贋札印刷に協力していたユダヤ人たちは、オーストリアの強制収容所に移して処刑する計画だったようだ。5月はじめに彼らをいったんマウトハウゼン収容所に移し、そこからエーベンゼー収容キャンプに運び、そこでほかのユダヤ人収容者とともにひとまとめでトンネル内に閉じ込めて爆殺する計画だったらしい。
しかし、いたるところで戦線は混乱し、軍の指揮系統が麻痺していたうえに、ドイツ軍のユダヤ人輸送に使える運搬手段=トラックが限られていて、エーベンゼーへの送り込みのためには、3回に分けて往復輸送するしかなかった。
その輸送が終わらないうちに、5月4日、エーベンゼーではユダヤ人の反乱・蜂起と抵抗が発生した。ドイツ兵は混乱して逃散する者も続出したようだ。エーベンゼーへの最後のトラック輸送便の護送部隊も、近くまで連合軍が迫ったことから逃げ出した。
翌々日、アメリカ軍がエーベンゼー収容所を解放した。こうして、印刷工たちの多くは生き残ることができたようだ。だが、解放後、苦悩のため精神に異常をきたしたり自殺したりする者が多く出たという。
さて、トプリッツ湖に沈められたはずの偽紙幣のうち多くがユダヤ人の地下組織によって回収され、イスラエル国家建設にさいしてその費用の支弁に用いられたという観測もある。そのほとんどが、東欧からパレスティナへの移住者の旅費の補助やら植民施設の建設に充てられたというのだ。この説の真偽のほどは不明だ。
◆アドルフ・ブルガーの覚書手記◆
ザクセンハウゼン収容所にける贋札印刷作戦についての体験談は、ユダヤ人収容者アドルフ・ブルガーへの聴き取り調査記録として1945年に膨大なほかの収容者記録とともに収録され、公になった。その後長い間、この資料は人に知られることもなく放置されていたようだ。
ブルガー本人は、解放後も四半世紀にわたって、この事件については黙して語らなかった。ところが、1970年代になると、彼はその事件の回想記録を著述し始め、75年にチェコ語で小冊子として出版した。
その動機について彼は、ドイツでネオナチが目立つようになり、アウシュヴィッツをはじめとする強制収容所の存在を否定・糊塗するようになったことに強い危機感を覚えたからだと説明している。
1983年には彼の覚書は、プラーハでチェコ語版の書籍として、また当時の東ドイツ・ベルリンでドイツ語版で刊行された。その後、当時の西ドイツでも、この記録が読まれるようになり重版となった。
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