どうしようもなく悲惨な物語は、ユダヤ人の小悪党、ザロモン・ザロヴィッチの視点から描かれる。
第2次世界戦争の直後、モンテカルロのカジノと豪奢なホテルで何かに憑依されたように巨額のドルをひたすら散在浪費するユダヤ人がいた。彼の腕には、強制収容所で刻印された烙印すなわち「ユダヤ人収容者番号」があった。強制収容所から生還した男らしい。
男の表情には、戦争とユダヤ人狩りを生き延びた安堵感や平穏というものがなかった。彼の眼は虚ろで幻滅し切ったシニシズムが漂っていた。
彼の心を凍りつかせた一連の事件の記憶が回想されていく。
1936年、ザロモン(愛称サリー)は書類の偽造や高利の闇金融で荒稼ぎしながら、ナチスが支配するドイツ社会の裏側を巧みに泳ぎ回っていた。彼は、ユダヤ人のために高額の贋身分証明書を製造して彼らの逃亡や亡命に手を貸していた。だが、代金の取り立てには容赦しなかった。
彼の同胞愛や義侠心はカネと直結していた。というよりも、カネ以外に信頼できるものがないという尺度で生き抜こうとしていたのかもしれない。
その頃にはまだナチスのユダヤ人狩りは大雑把で、ユダヤ人の大金持ちには甘い姿勢を示していた。大資産家や金融資本家に対してはいくぶん及び腰で、巨額の資産の没収に応じれば、それと引き換えに亡命や逃亡の機会を意図的に見逃していた。その方が、資金集めが効率的だからだ。
もちろん、中産階級以下のユダヤ人に対しては容赦がなかった。
サリーは闇の稼業の運営にさいして、その辺の事情も見透かしていた。
その頃は、ナチス・ドイツ側の軍事活動はラインラント進駐くらいで、まだ開戦していなかったので、ユダヤ人狩りではナチスは財産没収と資金集めに奔走していた。その意味では、ナチスはドイツ金融資本と財政装置の「忠実な番犬」だった。
戦争を開始した1939年から40年頃までは、電撃戦作戦は次つぎに成功して、ドイツ側にとっては戦況は明るかった。国外占領地や征服地で収奪した財貨が本国に流れ込み、国家財政を潤していた。そういうこともあって、ナチスのユダヤ人狩りの態勢には、あちこちに抜け穴があった。
ところが、やがて戦況が悪化すると、様相は一変していく。「狂気を帯びた」という以上のユダヤ人狩りが展開する。
あるとき、サリーは贋ドル札をつくった容疑で国家秘密警察の捜査官に逮捕されしまう。
ゲシュタポの捜査官ヘルツォークは機を見るに敏なるオパチュニストで、もとはドイツ共産党員だったが、ナチスが権力を独占するにおよんで――ナチスの思想は悪寒が走るほどに嫌悪していたが――ナチスに加盟入党した。とはいえ、リベラリストで物腰は紳士的である。
ヘルツォークは文書・通貨偽造犯ザロヴィッチ逮捕の功績を認められて少佐 Sturmbannführer ――本来の意味は「突撃急襲隊長」でドイツ軍の少佐に当たる――に昇進し、贋札発行作戦の製造現場指揮官に取り立てられた。
物語の人物配置を見ると、ヘルツォークは、ナチス党親衛隊 Schutzstaffel の突撃急襲隊長(帝国保安総局情報部少佐)ベルンハルト・クリューガーを脚色した人物ではないかと思われる。ナチスの贋札発行作戦が「ベルンハルト・プロジェクト Unternehmen Bernhard 」と呼ばれるのは、この男が作戦指揮に当たったからだという。
ヘルツォーク Herzog とは、公爵とか大貴族という意味があるので、洗練されているが庶民やユダヤ人に対して支配的で優越する立場にいる人物というペルソナを見え見えに示す名前ではある