日本海軍の戦略思想や戦争観には、決定的な弱点があった。ロジスティクス、すなわち兵站=補給戦略の完全な欠如である――陸軍も同じだが。
そもそも「連合艦隊」というような旧弊な名称を20世紀に残してふんぞり返っていること自体、当時の世界の海洋権力の常識から見て、異様な「遅れぶり」だった。
海軍すなわち海洋権力の担い手としての艦隊は、近代国民国家ではそもそも一体的で高度に統合されていてしかるべきであって、わざわざ「連合」をつけるほどに分散的であってはならないはずだった。
古くさい呼び名は、たぶんロシア帝国との日本海海戦での勝利から以降、つまらない見えと名誉欲で自分の足元が見えなくなっていたのだろう。派閥とか海軍管区ごとの不統一があったために、「連合」艦隊にするしかなかったのだ。
そもそも、日本の海軍は、明治当初からの藩閥政治の悪影響で、主要軍港と艦隊司令部が日本列島のあちこちにでき上がってしまったために、国家として統合された海軍戦力がなかなか形成されなかったという歴史の残存物なのだった。
つまり連合艦隊という呼び名は、「寄せ集め」という実態の裏返しの表明でもあった。
合理的な分業と協調とからなる、高度に統合された近代的組織戦略は、ついぞ海軍には育たなかったようだ。
さて、ロシアとの海戦での勝利は、日本海軍に成功体験への「過剰適応」をもたらした。近海での艦隊決戦だったことから、海軍独自の長い補給線の構築や兵站戦略の立案なしに、艦隊決戦を挑むという、一昔前(19世紀)の発想がその後も変わらなかった。
というわけで、太平洋をめぐるアメリカとの戦争において、海軍は兵員や軍備を遠方の諸島、戦略的拠点に配備する場合、その配備軍の戦闘能力を長く維持するための兵站=補給システムの組織化・構築には、ほとんど配慮しなかった。
食糧や武器弾薬の補給とか、人員の交替や休養などは、後回しどころか、考慮さえされなかった。
それゆえ、太平洋の諸島に送り届けられた兵員集団は、補給路もなく、孤立して消耗し、やがてアメリカ軍の圧倒的な破壊力の前に壊滅していくことになる。
要するに、死地に送り届けるだけ、気構えだけの主観主義的な軍事力配置、展開しか考えなかった。
その対極にあるのが、アメリカ合衆国だった。兵站・補給体系の周到な準備、艦隊間・拠点間の組織化、相互調整と統合の能力は、きわめて高かった。太平洋戦争で配備・配置した基地や補給線は、戦争後、そのままアメリカの世界ヘゲモニーを太平洋地域で堅固に支える装置となった。
なぜ、アメリカはこれほどに系統的で周到な戦略的兵站・補給体系を構築しえたのか。1つには、民主主義的レジームのもとで市民を兵員として戦場に派遣することにともなう人権=市民権思想があるだろう。だが、それ以上に、アメリカは軍事力の展開と経済的膨張とを有効にリンクさせる仕組みが形成されつつあったことが大きかった。
後年「軍産複合体」と呼ばれるレジームだ。
兵站=補給システムは、兵器体系と武器弾薬のほかに医療・衣料、食糧、事務用品、電気通信・電信機器、車両、燃料・・・という膨大な物資の国家調達のメカニズムをもたらし、それにともなう通貨の循環をもたらす。軍港、軍事基地、艦隊は、そこに数千から数万の兵員が集合的に活動する経営体であって、いわば都市にも似た経済組織でもあるのだ。
つまり軍組織の国際的な配置と運動は、膨大な経済的資源の運動をともなっていて、それゆえ、巨大な需要の喚起と技術開発が誘導する景気循環の波を呼び起こす。そして、戦備=軍事力が循環の起点であり中核となるのだ。