父親たちの星条旗 目次
政治の手段としての戦争
見どころ
あらすじ
「誤算」の日米開戦
日本の海軍の無能さ
真珠湾攻撃
軍産複合体
戦争の「悪夢」
山頂の6人
山頂に星条旗を掲げる
戦時公債キャンペイン
事実 truth とは何か?
アイラの脱落
それぞれの人生

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政治の手段としての戦争

  戦史映画『父親たちの星条旗』(2006年)は、クリント・イーストウッド監督が独自の視点から、「太平洋戦争」の実体を切り取った傑作だ。戦場の悲惨な現実、とてつもない破壊と殺戮、そこには英雄も善悪の弁別もない。ただ暴力が自己増殖運動する場でしかない。
  だが、その戦争を発動した者は誰か。戦争に向けて国家全体の資源を動員し、多数の人員を動員して死に直面させた権力とは何か。この映画は、こういう問題を鋭く提起している。
  原題は Flags of Our Fathers で、「父親たちの星条旗」「父親たちが掲げた旗」という意味。書籍や映画の題名の名詞に定冠詞をつけないのは、このところ30年間ほど著作物題名の流行りだが、しかしこの題名で the がなくて旗が複数形であることに、何やら含意がありそうな気がする。観衆に含意を考えさせようというのだろう。

  さて、19世紀後半以降の主要な戦争は、国家対国家の戦争だった。それは国民国家がその権力や支配領域を拡大しようと主観的に意図する戦争だった。つまり、国民国家の支配層は、主観的には国民国家の自己保存=生き延びのための手段として戦争を発動した。
  ところが、20世紀の世界戦争・大戦争は、そのテクノロジーから見ても、イデオロギーから見ても、一度始まったら、あるいは戦局が悪化しても、容易に講和に持ち込んで「国家レジーム」の保全をはかるという安易な決着を許さないものとなった。
  そのため、支配層は国民統治すなわち「政治の手段」として安直に戦争を発動したものの、戦争は始まるや否やその論理は自己運動を開始し、国家政治を翻弄し、一方を完全な破滅に追い込むまで和平講和を許さないものとしてしまった

  とりわけ第2次世界戦争は、兵器の破壊力や破壊の規模を飛躍的に拡大し、その開発と運用のために巨大な経済的資源を動員するものとなり、この動員政策を正統化するための宣伝戦、イデオロギー戦もまた熾烈で徹底したものとなった。
  そして、戦争の論理は最大の勝者、アメリカ合衆国の国家構造を組み換え、軍産複合体がレジームを牛耳るような仕組みを生み出してしまった。軍産複合体の権力が戦争政策を左右し、国民国家の民衆と資源を動員し翻弄するようになってしまったのだ。
  この映画は、このような戦争を――太平洋での戦争に焦点を当てて――アメリカの側から描き出している。

見どころ
  国家の政策、政治の手段として発動される戦争。この映画の主題は、そのような戦争の本質を問いかけることだろう。
  愛国心を鼓舞し、戦費を調達し、資源と人員を動員する。そのために、マスメディアを利用し、場合によっては、現実の戦場ではなかったことを演出して報道させる。国内では政権によるイデオロギー戦宣伝が展開される。
  まさに戦争は政治にほかならない。
  戦争を発動する国家の指導者・支配者たちは、多くの若者の命を掌でもてあそびながら、彼らが描く「国家の目標」に向けた政治を動かすために美辞麗句で「愛国心なるもの」を称揚し、反対意見を圧殺していく。
  そこでは、「戦争の英雄」も国家とメディアが結託して生み出した幻影でしかない。砲弾飛び交う前線で生命をかけて戦う兵士たちは、国家政治のチェスボードの上で翻弄される駒でしかない。
  すさまじい殺戮と破壊が展開する圧倒的な戦場シーンを描き出しながら、この作品の視点は冷ややかに冷めている。

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