硫黄島の最前線から戦時国債の宣伝のために帰国した若者たちは、虚偽に満ちたキャンペインのなかで傷つき、苦悩し続けることになった。結局、アイラ・ヘイズは心を病み――おそらく鬱病――アルコール依存症がどんどんひどくなっていく。ついに、軍幹部の怒りを買ってキャンペインからはずされた。幹部は、そんなに「戦場がいいなら原隊復帰させろ!」と言い放ったが、アルコール依存症では前線に送り戻すわけにはいかなかった。
たぶん治療機関で療養したのち除隊となったのだろう。まもなく居留地に戻った。
その後、しばらくアイラはアメリカン・インディアン協議会の活動に参加し、インディアンへの差別解消や白人系と原住民との相互理解のため各州を回りながら講演活動を続けたが、中途で挫折した。ふたたび居留地に戻り、アルコールに依存する生活に陥ったという。
おそらく今なら、戦場でのすさまじい殺戮と破壊を体験したためのPTSDという診断になろう。だが、その当時のアメリカは何十万、何百万人にものぼる戦場からの復帰者であふれていたこともあって、まともな配慮はなかった。とりわけ原住民出身のアイラには。
現住民としてのインディアンの居住権や経済的権利は、その後も長らく無視ないし軽視され続けたからだ。たとえば、原油・天然ガスや希少金属、放射性金属などの資源が埋蔵されているインディアン居留地の住民たちは、連邦政府や軍産複合体企業の圧力によって、離れた場所に強制的に移転させられたりした。
結局、インディアンたちは荒れ果てた辺境の地に押し込められ、細々と零細農業とか原住民見物の観光業などに携わって生きるしかなかったのだ。つまりは、まともな雇用や職業訓練の機会もなく、将来への希望も抱けずに憂さや屈辱をアルコールで晴らすしかない生活環境に置かれていたわけだ。
それは、アイラに限らず、1970年代まで多くのインディアンの若者たちがたどった道でもあった。
■その後・・・■
戦時公債キャンペインは終戦まで――あるいそれ以降も――続いた。そのため、ギャグノンとブラッドリーが財務省の任務から解放されたのは戦争終結後しばらく経過してからだった。それまで、2人は町から町へとキャンペイン活動で回りながら、公債購入を呼びかけた。
だが、結局は2人の「戦争の英雄」も政府にとっては「利用しやすい捨て駒」でしかなかった。
任務終了後、政府は2人に将来のための職業訓練や就職斡旋もしなかった。好景気だったとはいえ、政府は政府は前線から引き抜いた兵士を利用するだけ利用して、一般世間に放り出したわけだ。
キャンペインは終戦までにはメディアからも民衆からもすっかり飽きられ、忘れ去られていた。
主戦場となったヨーロッパと日本は戦闘や爆撃による破壊で経済は崩壊状態だった。戦争による荒廃からの復興のための需要にこたえたのは、生産設備に戦果を受けなかったばかりか、生産力を飛躍的に拡大したアメリカの工業製品だった。とはいえ、ヨーロッパや日本にアメリカから輸入された生産財の代金支払い能力はなかった。また、国際決済を媒介する世界的な金融システムも解体していた。
アメリカは、マーシャル・プランなどの戦後復興計画を策定して、国内に蓄積した膨大な利潤をヨーロッパや日本に支援貸し付けとして供給し、支払い能力を助成したが、その資金はアメリカ企業の収益として国内に還流して、アメリカの金融能力は史上空前の規模となった。アメリカの金準備の保有量は、世界の総量の6割近くに達した。アメリカは完全な世界覇権を手にしたのだ。
それゆえまた、合衆国の権力中枢、軍産複合体は世界システムを支配する中核装置となったのだ。